幕末の四大人斬り “人斬り半次郎”、実はほとんど人を斬っていない!歪められた実態と本当の姿:2ページ目
政治家として、軍人として
近年の研究において再評価が進んでいるのは、薩長同盟および両藩の関係修復における彼自身の政治的な貢献です。
一般に薩長同盟といえば坂本龍馬の功績が強調されがちですが、桐野は龍馬よりも早くから長州藩の尊王攘夷派と深いパイプを築き、実務レベルでの調整に奔走していました。
彼は寺田屋騒動後の龍馬を訪問し、大政奉還を前にして三条実美や桂小五郎とも面談を重ね、中岡慎太郎とも親交を結ぶなどしていました。
このことからも、彼が単なる武闘派ではなく、高度な政治的判断能力を有した折衝役として京都の政局に深く関与していたことが分かります。この事実は勝海舟の日記などからも読み取れます。
彼が軍事的な指揮官として頭角を現すのは、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦い以降です。
西郷の下で城一番乗りを果たす先鋒隊長に抜擢され、その後の彰義隊との戦闘や会津攻めにおいても、特使としての交渉役や実戦指揮で華々しい戦果を挙げました。
西郷や大久保利通といった巨頭の影に隠れがちではありますが、もし彼が他藩の出身であったならば、それだけで歴史に名を残す傑出した人物として扱われていたことは間違いありません。
明治新政府においても、彼は陸軍少将という要職に就きました。
そして北方の守りとして札幌鎮台の設置を提言したり、陸軍裁判所所長を務めたりと、国家建設の重要課題に精力的に取り組んだのです。
こうした点からも、桐野が一介の剣客風情には到底務まらない行政手腕を持っていたことが伺えます。
