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幕末の四大人斬り “人斬り半次郎”、実はほとんど人を斬っていない!歪められた実態と本当の姿

幕末の四大人斬り “人斬り半次郎”、実はほとんど人を斬っていない!歪められた実態と本当の姿:3ページ目

独立した棟梁

その後、征韓論争に敗れた西郷らが下野すると、桐野もまた職を辞して鹿児島へ戻り、私学校の設立や吉野開墾社の指導に携わることになります。

政府側はこの私学校を不平士族の巣窟として警戒しましたが、一方の西郷らには、来るべき外国との戦いに備えた近代的な兵力育成という目的があったとも指摘されています。

しかし、政府による密偵の派遣や弾薬の接収、さらには西郷暗殺計画の風聞が流れるに及び、両者の緊張は極限まで高まっていきました。

ここに至る過程をドラマなどでは「血気にはやる桐野が暴発し、西郷がやむなく腰を上げた」という構図で描くことが多いです。

しかし、同時代を生きた人々の証言を精査すると、西郷と桐野の関係は主従というよりも、互いに独立した棟梁としての性格が強かったことが分かります。

あの大隈重信でさえ、桐野を薩摩藩における一廉の驍将として敬意を払っており、決して西郷の付属品のような存在としては見ていませんでした。

西南戦争という悲劇的な結末に至った責任を、短絡的な熱情家としての桐野一人に負わせるような演出は、物語としてのカタルシスを優先した結果としての誤解です。

参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia

 

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