『べらぼう』実は写楽は外国人!?謎の浮世絵師・東洲斎写楽はオランダ人「シャラック」だった説:3ページ目
画風は変化し、あってはならないミスも連発
寛政6年(1794)5月にデビュー後、写楽は7月に第二弾の作品群を発表。全身絵が増え、興行主からの挨拶を描いた「楽屋頭取口上の図」や「細絵」も描いています。
そして11月の第三期は、顔見世狂言を描いた物、間版サイズの大首絵、亡くなった役者を追悼する「追善絵」を描いていますが、デビュー当時のインパクトは影を潜め、徐々に筆力の衰えが目立つようになりました。
また、間版シリーズでは5点に屋号や俳名の誤記が発見。「厳重な出版管理で知られる蔦屋が、なぜこんなミスを?」というのも謎です。
誤記が生じた3期は、創作意欲を失った写楽が行方不明となり、工房で他の人が仕上げるという急ピッチな制作体制だったためミスをチェックする余裕がなかった、などと推測されています。
狂歌師・大田南畝が写楽について語った「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」という評価の通りになってしまいました。
最初の作品の反応を受け、個性の強さは控え「より売れ筋で行こう!」という蔦重の指示があり、写楽自体どう描くべきか迷走したのかもしれません。
絵師としては迫力ある絵を描きたいのに、「売れる」ためには版元の指示通り、表現を押さえて描かねばないとなると、当然やる気も創作意欲も湧かず粗雑になっていくでしょう。現代のクリエーターと売る側にそのまま共通する出来事です。
