なぜ静岡はお茶の名産地になったのか?――幕末〜明治、勝海舟と侍たちの“再出発”と挑戦
今や“お茶といえば静岡”というほど全国的に知られていますが、最初から静岡が茶の国だったわけではありません。実はその背景には、明治維新の激動の時代を生きた一人の人物――勝海舟の存在がありました。
今回は「静岡県がお茶の名産地になった理由」についてご紹介します。
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侍たちが立ち上がった明治初期
江戸幕府が終わりを迎えた明治の初め、多くの武士たちは職と居場所を失いました。彼らの一部は徳川家ゆかりの地・静岡に移り住みますが、仕事も収入もなく、途方に暮れていたといいます。
そんな中、勝海舟は新しい時代を生きる道を示しました。「これからの時代は、刀ではなく鍬で生きるべきだ」と語り、静岡の牧之原台地を開拓し、茶の産地として発展させることを提案したのです。
勝はこの土地が日当たりや水はけに優れ、茶の栽培に最適であることを知っていました。
さらに、当時ヨーロッパやアメリカでは日本茶の人気が高まり、輸出産業としての可能性も広がっていたのです。
刀を鍬に持ち替えた侍たちの挑戦
勝の呼びかけに応え、約三百人の旧幕臣たちが牧之原台地に集まりました。かつて戦場で刀をふるっていた侍たちは、今度は鍬を手にして荒地を耕し始めます。
乾いた大地、強い風、そして慣れない農作業――。
過酷な環境の中でも彼らは地元の農民や川越の人足たちと力を合わせ、少しずつ土地を整えていきました。
数年の歳月をかけ、ようやく一面の緑が広がる茶畑が誕生します。
この努力が、静岡茶の発展の第一歩でした。武士たちの誇りと忍耐、そして勝海舟の先見の明が、静岡を「お茶の国」へと導いたのです。
2ページ目 一杯の緑茶に込められた思い
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