岩倉使節団の裏で進んでいた“不平等条約の完成”――明治政府が犯した外交の失敗・アメリカの罠【前編】
「不平等条約」の完成
幕末期に江戸幕府が最初に結んだ条約、いわゆる安政の五ヶ国条約は、1858年にハリスと調印した日米修好通商条約と、ほか四ヶ国とそれぞれ締結したものを指します。
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二つの「不平等条約」幕末期にアメリカとの間で締結された、悪名高い日米和親条約と日米修好通商条約は、日本にとって不利な取り決めでした。関税率はアメリカに有利なように決められ、また治外法権も認められた…
これらはもともと関税の面では「不平等」なものではありませんでした。
ところが、長州藩の無謀な下関戦争の尻ぬぐいと、兵庫の開港を求めるて軍艦を大坂湾に派遣した列強の圧力によって改税約書に調印させられてから、賠償金の減額と引き換えに「不平等条約」となったのです。
この「不平等」はこの後さらに深刻化しますが、それは他ならない明治政府のやらかしのせいです。
1869年、当時の北ドイツ連邦とと、またオーストリア・ハンガリー帝国とも通商条約を結んだのですが、ここで諸外国に認めていた特権に施行細則が付則され、関税面、治外法権面での不平等が具体的に確定してしまいました。
教科書で教えている「不平等条約」はこの段階で完成したのです。
1869年は戊辰戦争が終わり、幕府が消滅して明治政府がようやく外交権を得た年です。諸外国に政権を認めてもらうための焦りがこのような結果をもたらしたのでしょう。
教科書では、不平等条約は幕府から引き継いだと説明されがちですが、これは誤りで、明治政府が江戸幕府を貶めるために流布させたデマです。
そして不平等条約に関してあまり知られていない明治政府のやらかしは、他にもあります。ここでは、岩倉使節団の知られざる失敗エピソードを前編・後編に分けて紹介しましょう。
2ページ目 岩倉使節団の本当の目的とは?
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