岩倉使節団の裏で進んでいた“不平等条約の完成”――明治政府が犯した外交の失敗・アメリカの罠【前編】:2ページ目
岩倉使節団の目的
1871(明治4)年、右大臣・岩倉具視を大使とする使節団「岩倉使節団」がアメリカ・ヨーロッパに派遣されました。
彼らはまずアメリカと交渉しましたが目的を達することができず、欧米近代化国家の政治や産業の発展状況を細かく視察して帰国した……と教科書ではよく説明されます。
これを読むと、岩倉使節団は不平等条約の改正交渉と欧米視察を目的にしていたかのようですが、実は違います。
厳密には、岩倉使節団が目的としたのは、先述の安政の五ヶ国条約の改定期限の延期にありました。
条約にはいわば有効期限があり、継続や改定、廃止などを一定の期間後に交渉するのが一般的です。
当時は安政の五ヶ国条約の改定期限が翌年に迫っていたものの、国際法に対応・準拠した日本国内の法整備は遅れていました。
このまま改定期限を迎えてしまうとさらに不平等な内容に改正されかねません。そこで、日本の法整備が整うまで改定期限を延期してもらおうというのが岩倉使節団の目的だったのです。
改正の交渉ではなく、改正の延期が彼らの目的でした。
森有礼の提案
使節団のメンバーは木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視(全権大使)、伊藤博文、大久保利通です。この5人を含め、使節46人に随員18名、留学生4人も同行しました。
条約改正交渉の舞台裏には、使節団に参加していない、もう一人の人物が重要な役割をしました。それが薩摩出身の駐米代理公使の森有礼です。
森はアメリカの国務長官ハミルトン・フィッシュと昵懇で多くの政治家と接点がありました。使節団に同行していた駐日公使デロングは森と話し合い、使節団の副使・伊藤博文に条約改正の本交渉開始を提案します。
しかしこの後で、思いも寄らない落とし穴が待ち受けていました。
次回の【後編】では、それをめぐるドタバタについて説明します。
【後編】の記事はこちら↓
明治政府が犯した外交の失敗・アメリカの罠――岩倉使節団の裏で進んでいた“不平等条約の完成”【後編】
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:Wikipedia


