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実は敵より仲間を多く斬っていた!幕末の戦闘集団「新撰組」誇張と脚色に彩られた彼らの実態

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そんなに殺していない

新撰組の活躍ぶりも、イメージとは大きく異なります。

時代劇や映画では尊攘派の志士を斬りまくっているイメージですが、彼らの仕事はあくまでも探索と捕縛であり、実は志士たちをほとんど殺していません。

池田屋事件でも、最初は新撰組側も少数精鋭だったので「抵抗されたら殺す」という方針でした。しかしそれも、土方歳三の別働隊と合流した後は、捕縛を徹底しています。

実際、この時の戦果を近藤勇は「打取七、手負二、召取二十三」と示しています。

実は、新撰組は内部粛清によって殺された人数の方が多いのです。

新撰組が活動した五年間で粛正された人数は16人、内部抗争で殺された人数は16人に及んでいます。ちなみに敵に殺された人数は7人(うち3人は池田屋事件で死亡)です。

こう聞くと、新撰組には「士道二背キ間敷事」に始まる五箇条の局中法度があったので、これに違反した者が処罰されたんだろうな……と考えられがちです。

ところがこの局中法度も、実際にどの程度厳しいものだったのかはよく分かっていません。永倉新八は大正四年に「小樽新聞」の取材に対して、隊規は四箇条あって「勝手ニ私ノ闘争ヲ不許」の項目は無いと証言しています。

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これについて混乱が生じたのは昭和三年に子母澤寛が著した小説『新撰組始末記』が原因です。この物語内で、もともとあった新撰組内の禁制項目が脚色されたことから、実際とはかけ離れたイメージが定着したのです。

おそらく、新撰組は「カッコ良すぎた」のでしょう。多少の誇張や脚色を加えてもリアリティが失われないほどカッコ良すぎて、数々のフィクショナルな伝説をもごく自然に背負わされてしまったのです。

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参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia

 

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