幕末の新選組40%が病人だった!近藤勇が頼った名医・松本良順が見た衝撃の屯所の実態
1865(慶応元)年3月、新選組は壬生の八木邸から六条西本願寺北集会所へ屯所を移転しました。この屯所移転は、ほぼ1年前の1864(元治元)年6月の池田屋事件、7月の禁門の変における働きにより隊士が増えたことで、壬生屯所が手狭なったことが理由のようです。
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このような人員増大に対し、隊内における健康状態に危機感を抱いていたのか、局長の近藤勇は前年の江戸東下の際に、幕府御典医・松本良順を度々訪問しています。
今回は、幕末最強の武闘派集団の一つとされる新選組が抱えていた健康問題についてお話ししましょう。
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松本良順に隊内の健康診断を依頼する
松本良順は、佐倉藩藩医で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設した父・佐藤泰然のもとで助手を務めた後、長崎でオランダ軍軍医のポンペに医学を学びます。
その後、幕府の奥医師に進み、東京大学医学部の前身である西洋医学所頭取となりました。1864(元治元)年からは、幕府御典医となり将軍侍医などを務めるなど、幕末から明治前半にかけて活躍した医師として知られます。
その良順が、1865(慶応元)年の初夏、第14代将軍徳川家茂に従い上洛した際、近藤勇に請われて新たな西本願寺屯所にて、新選組隊士の健康診断を行いました。
新選組は西本願寺へ屯所を移すと、「英名録」と称される隊士名簿を作成しています。その名簿には、170数名(一説には130数名)の隊士が登録されていますが、驚くことなかれ、その40%にあたる70名近くが病人でした。
その内訳を見ますと、感冒(風邪)、食傷、梅毒などが多く、他にも、心臓肥大と肺結核という重症患者もいたのです。実は、近藤自身も持病の神経性胃炎を患っていました。
この時の屯所内の様子を良順は、以下のように書き残しています。
「勇ト歳三ト共ニ、屯所ヲ巡リ観ルニ、恰モ梁山泊ニ入ルノ思ヒアリ。或ハ刀剣ヲ磨キ、或ハ鎖衣ヲ繋グ等、甚ダ過激ノ有様ナリ。総数170~80名ニシテ、横臥、仰臥、裸体、陰所ヲ露ハスモノ少ナカラズ、其無禮(無礼)言フ迄モナシ。局長ト次長(副長)同行セラルルニ、裸体仰臥セシモノノ多キハ、ソノ長ニ対シ、無礼ナラズヤ。」
これを訳すと「近藤勇と土方歳三とともに、屯所内をめぐって観察すると、まるで梁山泊にいるように思えてくる。隊士たちはと見ると、刀剣の手入れや、鎖帷子を直す者など、かなり過激な様子だ。その数は170~80名ほどだが、一方では横になっている者も多く、なかには陰嚢を露わにして真っ裸で転がっている隊士もいる。局長・副長がいるのにもかかわらずこの態度は無礼としか言いようがない。」となり、やや憤慨している様子が読みとれます。
そして、屯所内の視察が終わり、客間あるいは局長室に戻り、近藤勇にこのことを問うと、勇は「彼らは皆、病に罹っているのです。どうか大目に見てやって下さい」と答えたといいます。
このような状況を見た良順は、すぐに病人とおぼしき者を一部屋に集めて、看護の者を付けました。そして、その数が余りにも多いため、他の医者も手配し診察を行ったようです。そうして判明したのが、170数名中、70名近くが病人という実状でした。





