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朝ドラ「ばけばけ」山岡鉄舟に入門した名剣士。江藤安宗(佐野史郎)のモデル・籠手田安定の生涯

朝ドラ「ばけばけ」山岡鉄舟に入門した名剣士。江藤安宗(佐野史郎)のモデル・籠手田安定の生涯:3ページ目

元老院議官就任と各県知事の歴任

地方における功績は、安定の評価を決定づけます。

明治17(1884)年、安定は元老院議官を拝命。元老院は国家の立法機関であり、議官は法の制定と改定に関わる立場でした。

翌明治18(1885)年には島根県知事に就任。教育や土木など近代化に取り組むと同時に、困窮士族の救済策も採用しています。

明治23(1890)年、安定は松江中学に英語講師としてイギリス人のラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)を招聘。間接的ながら、島根県の文化伝承に大きな役割を担っていました。

翌明治24(1891)年には新潟県知事に就任。ここでは自らの撃剣門人の看守採用をめぐって県会・地元紙から批判を受ける局面も生じました。

明治29(1896)年、知事として再び滋賀に復帰。湖北ではカルバートの追補修や水防体制がなお課題で、初任期に播いた種が維持管理という形で試されていました。

翌明治30(1897)年12月、勅令によって貴族院議員に選任。中央の舞台で地方行政の実務感覚を発言へと変換します。

明治32(1899)年3月30日、安定は病によって世を去ります。享年58歳。没後に勲一等瑞宝章と男爵が授けられました。

安定の人生は、近代化政策と武士道の合一にあったと考えます。

日本が生き残り、より発展する道は近代化でした。しかし武士道(特に剣術に見出した)は精神の支柱です。

江戸時代の官のあり方から始まり、明治の政治家へと発展・進化していった。籠手田安貞の人生は、日本の文明開花の軌跡とも重なる気がします。

 

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