”幕末”はペリー来航以前から始まっていた!泰平の世を揺るがした「内憂外患」とは?:3ページ目
フェートン号事件
1811年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンが日本側に拘束監禁される事件が起こると、ロシアも北方での航路を開拓していた商人高田屋嘉兵衛を抑留して両国の関係は一気に緊張します。
しかし、両国の対立を憂えた日本、ロシアの現地関係者、とくに返還された嘉兵衛の努力でゴローウニンも釈放され、この事件後、ロシアと幕府の関係は改善されました。
このあたりの緊張感はかなりのもので、もしも当時ナポレオンが台頭していなければ、ロシアは一気に極東アジアに南下し、圧倒的な軍事力で、北海道はもちろん日本列島を支配下に置き、今ごろ日本はロシアのサハリン州の一部になっていたかもしれません。
「外患」は長崎でも起こりました。フェートン号事件です。
19世紀初めはナポレオンが大陸支配を進めていた時期です。ナポレオンがオランダを征服すると、イギリスは、オランダが支配していたアジア各地の植民地の拠点を奪える好機ととらえました。
こうしてイギリスの軍艦フェートン号がオランダ商船を拿捕しようと、長崎の出島に侵入し、オランダ商館員を人質として燃料(薪)と水、食料を要求して退去するという事件が起こったのです。
これをきっかけに幕府は、白河藩・会津藩に江戸湾の防備を命じ、対外強硬策に転じました。
もともと幕府は、外交・貿易上の「四つの口」(長崎・対馬・琉球・蝦夷)を中心とする外交秩序を保ってきましたが、この枠組みにとらわれないロシアとイギリスの進出に警戒心を強めることになりました。
このように、ペリー来航以前から幕府は諸外国との対立・交渉を続けていたのです。
関連記事:
ペリーの来航は予定通り!?黒船&ペリーの来航を最初から知っていた江戸幕府の情報網
情報収集を怠らなかった江戸幕府ひと昔前は、幕末を舞台にした時代劇などでは、いわゆる「黒船来航」に幕府は次のように対応したと説明されるのが常でした。すなわち、ペリー率いる艦隊がアメリカ大統領…
幕末、ペリー提督が率いる黒船来航の裏側。強姦、発砲、略奪…条約締結の裏で起きた真実
1853年7月にペリー提督が浦賀に来航した事は学校でも習う、誰もがご存じの事実。しかしながらその前後にどこで何をしていたかは、教科書には載っていませんし、ご存知の人は多くはありません。…
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia


