”幕末”はペリー来航以前から始まっていた!泰平の世を揺るがした「内憂外患」とは?:2ページ目
ラスクマン事件
そして次に「外患」ですが、18世紀末、その危機は北方からやってきました。
松平定信が寛政の改革を進めているとき、ロシア使節のアダム・ラクスマンが日本人漂流民を届けるとともに、通商を求めて北海道の根室に来航します。ラクスマン事件です。
すでに国後島のアイヌが蜂起して松前藩に鎮圧された後だっただけに、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性をおそれており、幕府は江戸湾と蝦夷地の防衛の強化を諸藩に命じることになりました。
ラクスマンの通商要求と江戸入港許可の要求以後、幕府は択捉島の探検を進めてロシアとの国境線を択捉島の外に設けようとし、蝦夷地への入植や東蝦夷の直轄地化なども進めていきます。
1804年には、さらにロシア使節レザノフが今度は長崎に来航します。ところが通商要求を拒否して冷淡な対応で追い返したため、これに怒ったロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃するという事件にも発展しました。
