【べらぼう】歌麿の妻・きよの命を奪った瘡毒(梅毒)とはどんな病気?感染者の悲惨な末路と歴史
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第38回放送「地本問屋仲間事之始」では、喜多川歌麿(染谷将太)の妻・きよ(藤間爽子)が瘡毒(梅毒)に侵され、ついに命を落としてしまいました。
最愛の伴侶を喪った現実を受け入れられない歌麿が「まだ(きよの姿は日々変化しているから)生きている」と言い張り、ついには「こうすれば『一緒に逝ける』って」と彼女の遺体から膿(うみ)を吸おうとする狂気に、多くの視聴者が胸を痛めたことでしょう。
きよの遺体を連れ去られ、腐敗で黒ずんだ(きよが寝ていた場所の)畳に縋りついた歌麿は、ついには自分ときよを引き離した蔦重(横浜流星)に殴りかかります。
果たして二人の関係は、今後どうなってしまうのでしょうか。
今回はきよの命を奪った瘡毒(以下、梅毒)の歴史をたどってみたいと思います。
『べらぼう』喜多川歌麿が”結婚”の新展開 史料から謎多き妻・きよ(藤間爽子)の運命を追う
戦国時代にもたらされた梅毒
日本で梅毒が登場したのは16世紀初頭、戦国時代初期の永正9年(1512年)。コロンブスによってヨーロッパへもたらされてから、およそ20年という早さでした。
戦国武将の中では浅野幸長・加藤清正・前田利長・結城秀康らが梅毒で死亡。性行為によって感染することが経験的に知られていたため、精力旺盛だった徳川家康は遊女や不特定多数の(身元が不明な)女性と交わることを自戒していたと言います。
江戸時代に入ると梅毒はますます猛威を振るい、一説では江戸在住者の梅毒感染者はおよそ半数にも及ぶと言われました。
現代ではペニシリンなどの抗生物質を用いた早期治療で全快するものの、そのような治療法のない当時は命を落としたり、慢性的な後遺障害をもたらしたりしたそうです。
その外見的な症状は劇中にもあった腫瘍や疱瘡など、悪化すると皮膚が崩れたり軟骨炎で鼻が欠け落ちたりする者もいました。
貧しい夜鷹(最下級娼婦)などは鼻が欠け落ちた者も多く、川柳に「鷹の名に お花お千代(お鼻・落ちよ)はきついこと」などと詠まれています。まったく笑いごとじゃありません。

