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滅びゆく名門の誇り…反骨の貴族・大伴家持が『万葉集』に託した最後の歌【後編】

滅びゆく名門の誇り…反骨の貴族・大伴家持が『万葉集』に託した最後の歌【後編】:2ページ目

大伴の家名を後世に存続させることにかける

政争に明け暮れた奈良時代を生きた大伴家持は、しばしば自らの心情を吐露する歌を詠んでいる。

その中でも筆者が「いかにも家持らしい」と感じるのが、756年(天平勝宝8年)の『族(やから)に喩(さと)す歌』と題された長短歌である。

短歌
剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆさやけく 負ひて来にし その名そ

長歌
聞く人の鑒(かがみ)にせむを、惜(あたら)しき清きその名ぞ、
凡(おほろか)に心思ひて、虚言(むなこと)も祖(おや)の名断(た)つな、
大伴の氏(うぢ)と名に負(お)へる、健男(ますらを)の伴(とも)

これは、聖武上皇の崩御に際し、一族の出雲守・大伴古慈斐が淡海三船とともに朝廷を誹謗した罪で捕らえられた時に詠まれたものである。

無論、この事件の背後には藤原仲麻呂の影があった。橘諸兄を失脚させた仲麻呂は、孝謙天皇とその母・光明皇后の権勢を背景に、あらゆる政敵を次々と追い落とそうとしていた。

――「大伴氏は、天孫降臨・神武東征の時代より代々の大王に清き心で仕え、武勲と名望を背負ってきた家柄である。今こそその家名を絶やしてはならぬ」と、家持は叫んだ

この歌を家持の仲麻呂への畏怖とみる説もあるが、そうではあるまい。いかに天皇家に誠心誠意の忠誠を尽くそうとも、否応なく政争に巻き込まれる。その理不尽さを踏まえ、むしろ家持は、一族に対し従来以上の注意深さと深慮をもって行動するよう諭したのである。

この長短歌からうかがえるように、家持の政情分析は鋭敏であった。だが、その杞憂は早くも現実となる。翌年には「橘奈良麻呂の乱」が勃発し、多くの反仲麻呂派の皇族・貴族とともに大伴氏にも累が及び、獄死や流刑に処される者が続出したのである。

ただ、家持の掲げた「清く正しく」という想いは、決して純粋無垢なものではなかった。そもそも大伴氏の全盛期は、家持の生まれるより100年以上も前のことである。

当時の大伴氏は、大王の最側近として、朝廷における最高位の一つである大連を歴任し、大臣と並ぶ朝廷の双璧を成していた。しかし、継体大王を擁立した大伴金村が外交政策の失策によって失脚すると、その後は物部氏や蘇我氏が台頭し、大伴氏は次第に勢力を失っていくこととなった。

それでも壬申の乱では、大伴馬来田・負吹兄弟の活躍もあって辛うじて公卿を輩出したものの、奈良時代に入り藤原氏が勢力を拡大していく中で、大伴氏の復権は次第に困難となっていった。

藤原氏に幾度となく抗ってきた家持も、やがてはその現実を受け入れざるを得ないとの考えに至っていたことは事実だろう。そうであれば、家持に残された道はただ一つ。これまで以上に純粋に天皇家に忠誠を尽くし、大伴の家名を後世に存続させることだったのである。

3ページ目 『万葉集』の最後を飾る家持の絶唱

 

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