朝ドラ「ばけばけ」実は“八雲”の名付け人!松野勘右衛門(小日向文世)のモデル・稲垣万右衛門の激動の生涯:3ページ目
名づけの人―「八雲」という帰化名の由来
しかし万右衛門の稲垣家と、セツが完全に縁が切れたわけではありませんでした。
明治23(1890)年、松江に英語講師としてラフカディオ・ハーンが来日。その女中となったのがセツでした。
やがて惹かれあった2人は同棲。そのまま結婚し、やがてハーンは日本国籍を取得して帰化します。
その際に称したのが「小泉八雲」でした。
この「八雲」という名前は、万右衛門が『古事記』の歌にある「八雲立つ」にちなんで命名したとされます。
幕末を経験し、隠岐国を守る立場にあった万右衛門です。当然ながら外国人に対する敵愾心は人一倍であったでしょう。
しかしそれでも、かつてセツの結婚生活を破綻へと追い込んだ一端が自分にあるのではないか、と自問したのではないでしょうか。
そして選んだのが、孫娘であるセツの新たな幸せであった。そんな気さえ感じさせる美美劇です。
熊本への移住と晩年
英語講師であるハーンは、やがて熊本への転勤が決定。セツや稲垣家の面々も一緒に熊本に移ります。
万右衛門も熊本へ移住しますが、やがて松江の中原町の旧宅へ帰還。明治31(1898)年1月23日に自宅で世を去りました。享年80と伝わります。
のちに稲垣家では、八雲とセツの次男・巌が養子入りして家督を相続。稲垣家の系譜はその後も続きました。
稲垣万右衛門の生涯は、幕末の松江藩武士としての誇りと、維新後に直面した現実のはざまで揺れ動きます。
その一方で、小泉セツを慈しみ、小泉八雲に名を与え、さらには熊本移住にも同行したという家族の時間がありました。
大きな政治史の陰で、地域と家をつなぐ媒介者としての姿が静かに見えてきます。

