『べらぼう』寛政の改革は失敗?松平定信が憧れた祖父・徳川吉宗との違いは何だったのか?[前編]
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)のもとに「チーム蔦中」が結成される。
そこには、恋川春町(岡山天音)、喜多川歌麿(染谷将太)、北尾重政(橋本淳)、山東京伝(古川雄大)、朋誠堂喜三二(尾美としのり)、大田南畝(桐谷健太)といった、江戸後期の文学・美術界を牽引した俊才たちが名を連ねる。
一方、彼らから「ふんどし野郎」と揶揄されるのが、陸奥白川藩主にして幕府の筆頭老中、松平定信(井上祐貴)である。定信は「寛政の改革」を主導した人物であり、その理想とした政治は祖父で第8代将軍・徳川吉宗が推進した「享保の改革」にあった。
もっとも、享保の改革が幕府財政を一時的に立て直し、「成功」と評価されるのに対し、寛政の改革は厳格さゆえに反発を招き、「失敗」とされることが多い。このように、両者の結果は、明暗を分けた。
本稿では、蔦重と仲間たちの行方に大きな影響を及ぼすことになる松平定信に注目しつつ、定信が手本とした「享保の改革」に焦点をあて、「寛政の改革」と対比しながら[前編][中編][後編]の3回に分けて考察する。
第1回となる[前編]では、改革を担った徳川吉宗と松平定信、両者の出自にみられる共通点を中心にお話ししよう。
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徳川吉宗の孫にあたる松平定信
徳川吉宗の孫が松平定信であるため、定信にとって吉宗は言うまでもなく祖父にあたる。定信の父は吉宗の三男・宗武であり、「御三卿」の一つである田安家の初代当主となった。
「御三卿」とは、田安家・清水家・一橋家の三家を指し、将軍の親族として御三家(尾張・紀州・水戸)に準じる高い格式を有した家柄である。彼らは、御三家をはじめとする他の大名家や将軍家に後継者がない場合に、養子を提供する役割を担っていた。
「御三卿」は、当初吉宗によって田安家と一橋家が創設され、後に清水家が加わって成立したとされる。その背景には、家康・秀忠・家光から続いた徳川本宗家の血筋が途絶えたことを受けて、御三家以外からでも将軍家の後継を確保する必要性や、紀州家から将軍職が出たことを受け、その流れを後世に維持したいという吉宗の思惑があったともいわれる。
ただし、その真意については定かではない。



