【べらぼう】なぜふんどし野郎?なぜていは眼鏡を外した?響く「屁!」コールほか… 第34回の振り返り:4ページ目
戯れ歌ひとつ詠めないこんな世の中、屁だ!
田沼との別れに覚悟を決めた蔦重、狂歌師仲間を集めて「ふんどしの守」に抗う策を伝えます。
正しさばかりを前面に押し出すが、その「正しさ」からはみ出す者は一切許さない。死ぬまで何の楽しみもなく働き続けろ、それがお前らの分相応な人生だ……そんな「ふんどし野郎」を徹底的にヨイショするという皮肉をぶちかましてやろうと言うのでした。要するに贔屓の引き倒しってヤツですね。
しかし御政道をネタにするのは御法度じゃ……確かに建前はそうですが、定信はカネの力で読売を世に出しているのだから、田沼を叩く≒ふんどしをヨイショする黄表紙なら見逃すはず……そう見立てる蔦重。しかしその読みは、少し甘いのではないでしょうか。
権力者というのは、自分に好都合ならいいけど、不都合なら許さないというダブルスタンダードを平気でやってのけるものです。
まぁそれは次回の話として、もう一つは贅を尽くした狂歌絵本。買うなと言われても欲しくてたまらない、そんな作品には、やはり大田南畝(四方赤良)の狂歌が外せません。
「俺ゃ狂歌ってなぁ素晴らしい遊びだと思ってまさ。意味もねぇ、くだらねぇ、ただただ面白ぇ。これぞ無駄、これぞ遊び、これぞ贅沢!しかも身一つでできる心の贅沢だ。だから、上から下まで遊んだ。分を越えて遊べた。これぞ、四方赤良が生みだした天明の歌狂いです。俺ゃ、それを守りてぇと思ってます。南畝先生は、どうです?」
贅沢とはカネを使うばかりが能じゃない。いかに心を無駄に遊ばせるかこそ、贅沢の極みというもの。誰もがそれを体感できたからこそ、人々が熱狂したのです。
「戯れ歌一つ詠めぬ世など……屁だ!」
大田南畝が上げた心の叫びで、狂歌師たちの反骨精神に火が着きます。そして再びの屁!コール。その熱さに浮かされてか、よもやおていさんまでもが加わるとは予想外でした。
みんなそれぞれ個性的な仕草に惹かれる一方、奥から「屁!」コールが響く店内のシュールなこと……。
