手洗いをしっかりしよう!Japaaan

悲劇のヒーロー楠木正成、盟友・足利尊氏との宿命の戦いで散った忠臣の最期と”伝説化”の道【後編】

悲劇のヒーロー楠木正成、盟友・足利尊氏との宿命の戦いで散った忠臣の最期と”伝説化”の道【後編】:3ページ目

激戦、湊川の戦い!されど、正成の天命は尽きていった…

翌朝、5月25日の辰刻(午前8時)に九州から多くの武士に守られた尊氏の船団が湊川に到着します。義貞は三方向が海に面する和田岬に、正成は湊川西部の会下山に布陣しました。双方が矢を射かけ、刃を交えた大乱闘に発展しますが、義貞がミスを犯します。

「先頭で東に上陸しようとしている船にこそ、尊氏がいるのでは?」

しかしそれは足利軍の妙計であり、尊氏は後方の船にいたのです。まんまと誘導されてしまった義貞が和田岬の防備を手薄にしてしまったため、楠木軍と新田軍は分断されてしまったのです。

しかも、退路を断たれるのを恐れた義貞が一目散に逃げ出してしまったことで正成達は孤立してしまい、700余騎で尊氏の大軍を相手にする事になります。逃れられぬと悟った正成は、足利直義(ただよし。尊氏の弟)の軍に16回も突撃をして損害を与えました。

この戦いは6時間にも及び、楠木軍は73騎にまで減って正成自身も11か所に傷を追って力尽きてしまいます。正成と正季らは一軒の民家を見つけ、そこを最期の場所に決めました。正成が死ぬ前に何を思うかと正季に尋ねると、

「兄貴…俺は7たび人間に生まれ変わって、朝廷の敵を倒したいよ」

それに対して正成もうなずき、

「罪深い事を考えているなぁ…ワシも同じだよ」

そして、正成と正季は刺し違えて自害し、配下全員も自決しました。盟友の末路を知った尊氏は正成を不憫に思い、その首級を故郷の家族に引き渡します。こうして正成の一生は終わりましたが、その後も彼の生き様は伝説として語り継がれます。

江戸時代で人気急上昇した正成、黄門様も大ファンだった!

足利尊氏との戦いで正成が死んで正行が継いだ後も、楠木家は南朝に仕え続けますが、北朝が正統と見做されるようになると、彼は朝敵(朝廷の敵)扱いを受けます。しかし、正成の末裔を称した戦国武将・楠木正虎(まさとら)が天皇に嘆願して汚名を返上したのを始め、尊氏にも劣らず民衆思いだったことから、庶民にも正成人気は広まっていきました。そう、アイドル化が始まったのです。

江戸時代以降は『三国志演義』の流行から、悲劇の忠臣で不世出の軍師でもある諸葛孔明と重ね合わせられ、人気は更に高まりました(日本の武士と三国志をコラボさせる所は平成そっくりですね)。また、由井正雪などの武士には正成が祖となった楠木流の兵法が広く学ばれます。

また、足利と同じ源氏の血を引く徳川氏も正成には好意的であり、水戸黄門こと徳川光圀は寂れていた正成の墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」と彫り込んだ墓碑を建立させていました。そのお墓は、今も湊川神社境内にあります。その光圀が着手した“大日本史”などで朝廷・皇室の権威を重視する学問で南朝が正統と見做されたことが、幕末における正成を崇敬する姿勢に代わっていくのです。

4ページ目 動乱の志士を支えた名将、近代化以降には陰りを見る?

 

RELATED 関連する記事