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「豊臣兄弟!」とも深い縁の戦国大名・真田氏の実質的な祖「真田幸隆」とは何者か?

「豊臣兄弟!」とも深い縁の戦国大名・真田氏の実質的な祖「真田幸隆」とは何者か?

信濃国真田庄の豪族として始まり、やがて豊臣秀吉の傘下に入り、さらに独立大名として戦国の世を颯爽と駆け抜けた真田一族

本稿ではその真田一族の中でも、真田幸隆・昌幸・信繁・信幸の三代にわたる事績を紹介していく。

今回は、武田氏や村上氏の勢力争いの中で一時的に本領を失いながらも、卓越した謀略の才によって領地を回復した戦国大名真田氏の実質的な祖とされる真田幸隆についてお話ししよう。

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本領の真田庄回復のため武田信玄に仕える

真田氏の実質的な開祖とされるのが、真田幸隆、すなわち真田信繁の祖父である。

幸隆は1513(永正10)年に生まれたとされるが、その出自には不明な点が多い。

一般には、海野氏の棟梁・海野棟綱(うんのむねつな)の娘と、真田頼昌(さなだよりまさ)との間に生まれたという説が有力だが、確証はない。

幸隆の事績で確かなのは、1541(天文10)年に、甲斐国主・武田信虎と村上氏・諏訪氏の連合軍によって攻められた「海野平の戦い」で没落したことである。

このとき、棟綱らとともに上野国へ逃れ、箕輪城主で関東管領・山内上杉家の家臣である長野業正(ながのなりまさ)の庇護を受けたとされる。

幸隆は、業平のもとで再起の機会を窺っていたが、思うように事が運ばないと悟ると、かつての敵であった武田家に奔る決意を固めた。

この時、武田家では信虎がクーデターにより駿河へ追放され、嫡子の信玄(晴信)が家督を継いでいた。

ただし、幸隆が信玄に臣従した時期については諸説ある。

江戸時代初期の軍記物『甲陽軍鑑』によれば、1548(天文17)年に行われた上田原の戦いにおいて、武田家の宿老・板垣信方の脇備として出陣しており、おそらくこの頃にはすでに信玄に仕えていたと考えられる。

また、同じく江戸時代初期の真田家の記録『真武内伝』には、信玄の軍師(足軽大将)・山本勘助の推挙によって仕官したとも伝えられている。

2ページ目 信濃先方衆として活躍。真田氏興隆の礎を築く

 

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