「豊臣兄弟!」とも深い縁の戦国大名・真田氏の実質的な祖「真田幸隆」とは何者か?:2ページ目
信濃先方衆として活躍。真田氏興隆の礎を築く
信玄の傘下に入った幸隆は武田家の信濃先方衆として、持ち前の謀略を駆使して活躍した。1550(天文19)年には、真田庄の砥石城攻めを信玄に進言し、村上義清方の清野氏や寺尾氏などを調略するも、「砥石崩れ」と呼ばれる大敗を喫する。
しかしその翌年には再び砥石城攻めに参加し、自身の調略により、わずか一日で砥石城を陥落させた。
そして、1553(天文22)年、ついに宿敵・村上義清を越後国へと追いやり、幸隆は真田庄の旧領を完全に回復した。
その後も幸隆は、川中島の戦いにおいて、越後の長尾景虎(上杉謙信)に備えるため、真田本城を本拠としながら砥石城の城代を務めた。
さらに、武田氏の有力武将として上野攻略にも参戦し岩櫃城を手に入れるなど、真田氏興隆の礎を築いたのである。
しかし、さしもの幸隆も病には勝てず、1567(永禄10)年に家督を嫡男・信綱に譲って隠居した。
そして、1574(天正2)年5月19日、砥石城(一説には岩櫃城)にて62歳の波乱に満ちた生涯を閉じた。墓所は、長野県上田市真田町にある曹洞宗・真田山長谷寺(ちょうこくじ)にある。



