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「暴力で解決は割に合わない!」江戸時代の百姓一揆で武器が使われなかった合理的すぎる理由

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2025/08/03

殺し合いに懲りて…

こうした一揆の作法は、最初からそういう形式だったわけではありません。江戸時代の支配体制がまだ十分に整っていなかった時期の一揆は、こうした形式とは大きくかけ離れていました。

例えば江戸時代の初期に起きた1637年の島原天草一揆では、武士も百姓も苛烈な暴力をふるいあっています。

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甲冑に身を包んだ武士が鉄砲で百姓を狙い、百姓は槍や刀でもって武士を迎え撃つという構図で、彼らは明確に殺し合っていました。

島原天草一揆がこのように暴力的だったのは、江戸幕府の支配体制が始まったばかりの時期だったことも大きな要因でした。

17世紀前半は、百姓一揆の作法が未成立な時期でした。この一揆の経験を経て、領主層は激しい騒乱を起こさせないことが仁君としての名目を保つうえで重要だと認識するようになり、百姓側も暴力をふるわないことが仁政の回復を求めるために必要だと認識するようになったのかも知れません。

戦国時代の血で血を洗う殺し合いの時代の経験を経て、江戸時代の太平の世は実現されました。しかし「暴力で解決するのは割に合わない」ことに気付いたのは支配階級の側の話だけではなく、農民もまたそれを認識していたのです。

参考資料:藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書・2020/8/20)』
画像:photoAC,Wikipedia

 

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