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「刀狩り」でも実は武器は奪わず?豊臣秀吉が目指していた本当の支配のカタチとは

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唯一しっかり規制された武器

17世紀末には、村々が農具として所持する鉄砲は、尾張藩で約1600挺、松本藩で約500挺、紀州藩で約300挺など、驚くべき数にのぼります。これらは田畑を荒らす鳥獣の駆除などに使われていました。

これらを武器として争いに用いることは固く禁じられましたが、所持は当然のことと見なされていたようです。

ただし、それでもしっかり規制されたものがあります。それは、身分を象徴するです。

脇差しのような小さな刀は問題なかったのですが、長い柄を持つものや鞘が派手なものを、町人・百姓が所持することは規制されました。外見上、武士との身分差があいまいになるからです。

規制はあくまでも、百姓に武器を持たせないためではなく、外見的に身分を明確にするためだったのです。

このようにして、軍役を負う武士と年貢夫役を負う百姓の身分は固定化されていきました。実際には脇差し・鎗・鉄砲など武器となるものを持っていても、人に向けては使ってはならないとされたのです。

これが百姓という身分の本質の一側面でした。

よって、領主に対して異議申し立てをする百姓一揆を起こす場合も、兵農分離によって、百姓の暴力を制御するこうしたルールによって規定されていました。

実は江戸時代の「百姓一揆」は作法やルールが決まっていた!意外な“一揆マナー”の実態

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参考資料:藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書・2020/8/20)』
画像:photoAC,Wikipedia

 

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