大河『豊臣兄弟!』に登場か?豊臣家の影に生き忠義に命を捧げた武将・河尻秀長の生涯 【前編】:2ページ目
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九州征伐にも参戦
1587年には、秀吉の九州征伐に150人の兵を率いて従軍。このころから「肥前守」を名乗るようになり、肥前・名護屋城などでも軍政に携わります。
秀長の任される仕事は、どんどん多岐にわたっていきました。摂津の高槻や茨木といった重要な地の代官(実質的な城主)を任されたことからも、秀長の立場の高さがわかります。
特に茨木では、秀吉の嫡男・鶴松の養育に関する役職も担っており、政権中枢に近い存在として重用されていたことは間違いありません。
1592年の文禄の役では、肥前・名護屋城に詰め、明国からの使者に対応する場面にも同席しました。秀長は、戦だけでなく外交や儀礼の場でも、その役割を果たしていたのです。
秀吉の「形見」を継承
1598年、秀吉が亡くなると、秀長は「盛光」という名刀を形見として贈られました。これは、特別に信頼された家臣だけに与えられるものでした。秀吉の信任の深さが、ここにも表れています。
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大河『豊臣兄弟!』に登場か?豊臣家の影に生きた武将・河尻秀長の静かなる最期 【後編】
教科書にはあまり登場しませんが、戦国の舞台裏で確かな存在感を発揮した武将がいます。それが、河尻秀長(かわじりひでなが)です。豊臣秀吉に仕え、戦でも政治でも着実に力を発揮しました。【前編…
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