NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」皆さんも楽しんでいますか?
劇中では誰袖(福原遥)を身請けする決意を固めた田沼意知(宮沢氷魚)は、幸せを目前にしながら佐野政言(矢本悠馬)に斬られてしまいました。
『べらぼう』胸が詰まる“桜”の演出…田沼意知と誰袖の幸せな桜、悲劇を招いた佐野の枯れ桜【前編】
いかにも初々しい感じですが、実は意知には既に嫡男がおります。物語がややこしくなるため、おそらく大河ドラマには登場しないでしょう。
今回は田沼意知の嫡男・田沼意明(たぬま おきあき)について紹介。その生涯は、実に不運なものでした。
斜陽の田沼家を継承
田沼意明は安永2年(1773年)、田沼意知の長男として誕生しました。母親については詳しくわかっていません。
兄弟には田沼意壱(おきかず)・田沼意信(おきのぶ)らがいます。
12歳となった天明4年(1784年)に父・意知が暗殺(3月24日襲撃、4月2日死亡)。そのため、祖父である田沼意次の世継ぎに指名されました。
やがて元服し、織田信浮(おだ のぶちか。出羽高畠藩主)の長女・喜姫(よしひめ)を正室に迎えます。
天明6年(1786年)に祖父の意次が失脚したため、その所領である遠江相楽藩(静岡県牧之原市)は最盛期の5万7千石から大幅に減封。天明7年(1787年)に意明が家督を継いだ時には2万7千石と半分以下になっていました。
意次に代わって政権を握った松平定信の追い討ちは続き、意明は陸奥下村藩(福島県福島市)1万石へ転封されてしまいます。
しかも自分の所領であるにも関わらず、現地へ赴くことは許されません。力を蓄えて謀叛を起こすことを警戒されたのでした。
また大名でありながら、将軍・徳川家斉への御目見(おめみえ)や官位の叙任も受けられない有り様です。
やがて寛政5年(1793年)に定信が失脚すると所領への下向や叙任(従五位下、下野守)などが許されるようになりました。
寛政8年(1796年)に大坂定番(または加番)を拝命します。これらの役職は大坂城の番役でしたが、意明は大坂へ赴任することはありませんでした。
そして同年9月22日、24歳で世を去ります。喜姫との間に子供はおらず、弟の田沼意壱を養子として家督を継がせました。
