お手本はアメリカ。天下の日本銀行はなぜ誕生したのか?西南戦争と紙幣整理の真相
お手本はアメリカ
1872(明治5)年、国立銀行条例が公布されました。
明治政府は、江戸時代の貨幣制度から脱却し、新しい貨幣制度にはそれに合った近代的な金融機関が必要であると考えていました。
そこで海外の金融機関を視察するため伊藤博文がアメリカに渡り、1870(明治3)年から翌年にかけてナショナル・バンク(national bank)について学び、それにならった銀行を日本に設立することを建言します。
そのような経緯で、国立銀行条例は公布されたのです。
ちなみに「国立銀行」という言葉はアメリカのnational bankを翻訳したものです。
本来は国の法律にもとづいて設立された銀行を意味しているので、今から思えば国法銀行と訳した方が良かったかも知れません。
「国立」というと国の出資により設立された官立銀行のイメージですが、実際には、出資は民間の資本によってなされていました。
日本銀行の設立
国立銀行条例により設立された国立銀行では、それぞれの銀行が独自に紙幣を発行していたため、紙幣にはそれぞれの銀行名が印刷されていました。
現在の日本では、紙幣を発行できるのは日本銀行に限られていて、流通している紙幣にはすべて「日本銀行券」(日本の紙幣の正式名称)と印刷されています。
ですから、日本銀行は日本の銀行の中心、つまり中央銀行ということができます。
では、その日本銀行はいつ頃、なぜできたのでしょうか。そのもともとの原因は西南戦争にありました。
1877(明治10)年2月に西南戦争が勃発すると、膨大な戦費を調達するため、国立銀行紙幣や政府の紙幣が大量に発行されます。
当時流通していた紙幣はどちらも正貨に兌換できない不換紙幣でした。だからいくらでも発行できたのですが、発行すればするほど紙幣の価値は下がり、激しいインフレーションが起きてしまったのです。
ちなみにインフレーションとは貨幣が増えすぎてお金の価値が下がり、物価が上がる現象です。こうなると、ものが売れなくなり経済が停滞します。現代の日本と同じ状況ですね。

