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「べらぼう」なぜ蔦屋重三郎は江戸・日本橋への進出に憧れたのか?魚河岸が作った経済インフラの全貌

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魚河岸を起点に江戸の諸方へ運ばれた魚介類

江戸湾から日本橋川を上り、日本橋河岸に横付けされた押送り船から降ろされた魚介は、すぐに問屋の店先に並びます。そして、問屋から仲買に卸され、彼らは板舟と呼ばれる簡便な店舗で魚の販売を行いました。

その仲買から魚介を購入したのが、時代劇に登場する“一心太助”のような「振売り」と呼ばれる商人たちでした。

江戸の食品流通の最末端に位置していた彼らは、両端に魚を入れた桶を吊るした天秤棒を振りかつぐスタイルで、早朝に魚河岸で仕入れた魚を江戸の町を歩きまわりながら行商を行ったのです。

この他、料理屋は日本橋魚河岸から直接魚介を仕入れていたようです。江戸における料理屋の出現には、その形態からさまざまな説があるようですが、1700年代になると煮物を肴に酒が飲める居酒屋が現れます。

蔦屋重三郎の頃には今でいうコース料理を出す高級料理店を始め、6,000軒を超える料理店が存在したといわれています。彼らにとっても、日本橋魚河岸はなくてはならないものであったのでしょう。

そして江戸城内で使われる魚は“魚納屋役所”の役人が魚河岸から買い付け、「御用肴」の札を掲げた荷車に積んで、鮮度の落ちないよう猛スピードで江戸城に向かったのです。

 

江戸の町には1日に千両のお金が動く場所が3か所あったとされています。「一日に千両の落ちどころ」と称された場所は、芝居町と吉原、そして日本橋の魚河岸であったのです。

このように日本橋は、日本経済を動かすほどの繁華街でした。さらなる耕書堂の繁栄を期す蔦屋重三郎にとって、この町への進出は、ぜひとも成し遂げなければならないことだったのです。

 

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