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「べらぼう」なぜ蔦屋重三郎は江戸・日本橋への進出に憧れたのか?魚河岸が作った経済インフラの全貌

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魚河岸とともに江戸一番の繁華街に発展

家康が将軍に任じられ、都市改造を開始した当時、江戸の人口はおよそ15万人ほどでした。それから約30年後の1632年(寛永9年)には、人口は倍増し、少なくとも30万人を超える人々が暮らしていたと考えられています。

大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎の時代は、それから約150年後になりますが、その頃には江戸の総人口は優に120万人を超えていたのです。

このように、江戸は時代が下るにつれて人口が増加し続けました。それに伴い、江戸市民の生活を支える物資の供給が必要となります。日本橋は、そうした物資のうち、特に魚介類を供給する魚河岸の街として、なくてはならない存在となっていったのです。

当時の人々の間では、獣肉を食べることを忌避する考えが広く浸透していました。そのため、魚介類は江戸市民にとって貴重なタンパク源だったのです。江戸幕府にとっても、その需要を満たすために魚の流通システムを整備することは、必要不可欠な課題でした。

ちなみに家康は江戸に入ると摂津から漁民を招き、佃島に移住させました。彼らは幕府の膳所(台所)に魚介類を供するために漁業を営みます。

日本橋の魚河岸は当初、佃島の漁民たちが獲った魚を幕府に納めるために設置されました。その後、幕府に上納する残りの鮮魚を、舟板の上に並べて一般に販売するようになります。これが、日本橋魚市場のはじまりです。

そして次第に、江戸湾の漁師たちが“押送り船”という高速の小舟で魚を運び込むようになり、日本橋の魚河岸が形成されていったのです。この小船は左右に4本ずつの櫓が付く、8人で漕ぐ運搬船で、冷凍冷蔵技術がなかった江戸時代において、鮮度の良い魚を運ぶための高速船でした。

18世紀以降の江戸には日本橋以外にも5組の魚問屋仲間がありました。しかし、生鮮魚と塩干魚の両方を取り扱ったのは日本橋の魚問屋だけで、江戸時代を通じて常に優越的立場を持つ最大の市場であったのです。

京都で発行された『江戸名所記』という実用的な江戸ガイドブックには、日本橋の混雑ぶりを次のように記しています。

「橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。~(中略)~朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。~(中略)~橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。」

この江戸の名所記は、日本橋ができてからまだ半世紀しか経っていない寛文2(1662)年に出版されていますので、当初から日本橋がどれほど繁盛していたかが想像できるでしょう。

3ページ目 魚河岸を起点に江戸の諸方へ運ばれた魚介類

 

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