
なんと500名が自害!鎌倉時代のクーデター「霜月騒動」にまつわる陰謀論をひもとく!
時は弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉幕府の御家人である平頼綱(たいらの よりつな)が同じく安達泰盛(あだち やすもり)を討ちとりました。
これがいわゆる霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれるクーデター事件。旧暦11月(霜月)に発生したからそう呼ばれています。
霜月騒動の結果、それまで幕政を主導して権勢を誇った安達一門および安達派500名が自害、そして全国の残党が滅ぼされていきました。
今回はこの霜月騒動について、紹介したいと思います。
霜月騒動の流れ・弘安7年(1284年)
第8代執権・北条時宗(ときむね)が34歳で世を去り、嫡男である北条貞時(さだとき)が13歳の若さで執権となりました。
当時は北条一門に後ろ盾となれる有力者がいなかったため、安達泰盛が後見人として政治の実権を握ります。
安達泰盛は鎌倉草創の功臣・安達盛長(もりなが)の曾孫で、貞時のおじ(※)に当たる人物です。
(※)ただし泰盛は貞時の母(自身の姉妹)を養女としているため、義理の祖父とも言えるでしょう。
安達泰盛は当時、元寇(モンゴル帝国の襲来に対する防戦)などでガタガタになっている鎌倉幕府を再建するため、政治改革を推進しました。
改革とは往々にして摩擦を生じるもので、既得権益を損なわれてしまう者も少なくありません。
そんな一人が、平頼綱だったのです。
一刻も早く安達泰盛を討ち、自身が政権を掌握したい。頼綱は力を蓄えて時機を待ち続けました。
霜月騒動の流れ・弘安8年(1285年)
そして11月17日。平頼綱は計画を決行、安達泰盛を討ち取ることに成功します。この時の様子を伝える唯一の史料がこちらです。
「奥州入道(おうしゅうにゅうどう)十七日巳剋(みのこく)マテハ松か上(まつがうえ)ニ住、其後(そののち)依世中動(よのなかのうごきによりて)、塔ノ辻(とうのつじ)ノ屋方(やかた)ヘ午時(うまのとき/ひるどき)ニ被出(でられ)けるニ、被参(まいられ)守殿(こうのとの)云々(うんぬん)、死者三十人、手ヲイ(手負)ハ十人計(ばかり)」
※東大寺僧凝念『梵網戒本疏日珠鈔』巻第三十 紙背文書より
【意訳】奥州入道こと安達泰盛は11月17日、朝10:00ごろまでは松谷(まつがや)の別荘にいた。しかし身の危険を感じたため、御所に近い塔ノ辻の別邸へ向かう。昼12:00ごろに到着すると、守殿こと平頼綱の襲撃を受け、泰盛はじめ約30名が討死。約10名が負傷した。
……同書「弘安八年十一月十七日鎌倉合戦自害者注文」によれば、これに続いて安達一門と安達派の御家人500名が自害しました。この一連が霜月騒動の顛末と言えます。
これだけ見ると、安達泰盛がどのような最期を遂げたのかがよく分かりません。
例えば軍記物語『北条九代記(きゅうだいき)』では、安達泰盛を武装した平頼綱の軍勢が待ち受け、暗殺したとしています。
しかし軍記物語の記述をそのまま史実ととらえるのは危うく(読み物や語り物としては、面白ければそれでいいのですが)、周辺史料から暗殺よりも正規戦(合戦)だったのではないかとする説もあるようです。