なんと500名が自害!鎌倉時代のクーデター「霜月騒動」にまつわる陰謀論をひもとく!:2ページ目
霜月騒動は暗殺ではなく合戦だった?
『門葉記』によると弘安8年(1285年)11月4日から、平頼綱は安達泰盛を討つ前に泰盛を調伏する(呪い殺す)祈祷を開始していました。
つまり平頼綱はやる気満々であり、その動きが洩れ聞こえないはずはありません。だから安達泰盛としても何の備えもせずにただ暗殺されてしまうのは不自然です。
合わせて前掲史料に「依世中動(せいちゅう/よのなかのうごきによりて)」とある通り、既に身の危険を感じていた泰盛が、移動に際して奇襲や暗殺への備えをしなかったとは考えにくいでしょう。
松谷から塔ノ辻へ向かう道のりは、若宮大路の下馬を回らなければならないとしても、およそ3キロ。急げば徒歩で20~30分ほどの道のりを、ゆっくり2時間(巳剋⇒午時)かけて移動したのは、軍勢を率いた示威行為と考えられます。
安達泰盛が軍勢を率いて移動したのは、平頼綱との決戦を前に味方を集めたかったのでしょう。日ごろから御家人たちの人望が厚かったため、頼綱を圧倒できたはずです。
そして何より当時鎌倉で合戦があったことを、当時の史料が伝えていました。
「関東合戦出(い)で来たり候て、城入道(泰盛)父子ともに打たれ候(さふら)い了(おは)んぬ。相州(貞時)逐電候由、今夜飛脚京都に到来と聞こえ候」
※『梵網戒本疏日珠鈔』の紙背文書・十一月二十一日書状
結果として安達泰盛父子が討たれたものの、執権である北条貞時が鎌倉から逐電(逃亡)してしまうほどの大混乱に陥ったというのです。
さすがに執権が鎌倉が逃げたのはデマ・誤解でしたが、安達泰盛が黙って討たれたのであれば、ここまでの事態には陥らなかったでしょう。
そして『鎌倉年代記裏書』には、将軍御所が炎上してしまった記録がありました。既に将軍と執権をおさえていた平頼綱が火を放つメリットはないため、安達勢の放った火が延焼したものと考えられます。
これらの史料等から、霜月騒動は暗殺事件よりも正規の合戦であった可能性が高いと言えるでしょう。
