手洗いをしっかりしよう!Japaaan

朝ドラ「あんぱん」嵩の父・柳井清(二宮和也)のモデル・柳瀬清が遺したアンパンマンの源流〈空腹の哲学〉

朝ドラ「あんぱん」嵩の父・柳井清(二宮和也)のモデル・柳瀬清が遺したアンパンマンの源流〈空腹の哲学〉:3ページ目

厦門の客死と〈空腹の哲学〉

大正12(1923)年、清は家族を連れ上海へ赴任。同地では次男・千尋が誕生し、家族が増えました。

しかし清に、今度は広東転勤が命じられます。

当時の広東では北伐戦争が勃発中でした。清は「災難の都合は大人が被れば良い」と家族を東京に戻し、単身で最前線へ向かいました。

清は戦争取材に奔走し、飢饉の現場で「食を奪われた民衆こそ最大の弱者だ」と痛感します。克明なルポは東京本社で高評価を得ましたが、月給の大半を救援米購入に充てたため家計は火の車だったようです。

清が送った絵入り書簡を、幼い嵩は“おとぎ話の新聞”と呼び大切に保管します。ここに「物語で飢えを癒やす」萌芽が芽生えたと指摘する研究もあります。

しかし清には、残された時間はわずかでした。

大正13(1924)年5月16日、厦門で清は髄膜炎に倒れて病没。わずか31歳という若さで帰らぬ人となりました。赴任からわずか一年半のことでした。

2,000字を超える死亡記事の末尾には「筆名ケイ・ヤナセ、食糧問題と東アジア経済を論ず」とあり、同僚はその視座を“パンと平和の人”と評しています。

嵩たち遺族は高知へ戻り、嵩と千尋は伯父に預けられて育ちました。

しかし清の残した思いは、確かに嵩に受け継がれていたようです。清の残した蔵書に詰まったロシア文学や石川啄木の歌集が、のちの『手のひらを太陽に』の詩情を育てたと本人は語ります。

さらに清の手紙に繰り返される〈食べものを分け合え〉の一節を、嵩は「顔をちぎって飢えた子に与えるヒーロー」に姿を変えたとも言われています。アンパンマン誕生(1969年)は、父が遺した“空腹の哲学”への、嵩の答えでもあったわけです。

 

RELATED 関連する記事