朝ドラ「あんぱん」に登場する、のぶの最初の夫・若松次郎のモデル「小松総一郎」の実像に迫る!:2ページ目
1939年の結婚とライカの贈り物
一等機関士として活躍する総一郎に、やがて運命の出会いが訪れます。
昭和14年4月、小学校の教師をしていた池田のぶと出会い結婚。新たな生活を歩み始めます。
ドラマ中では、若松次郎がカメラに夢中になっている描写がありました。実際に総一郎は結婚に際して、ドイツ製カメラのライカをのぶに贈っています。
これは暢の甥が保管する当時の領収書(銀座松屋カメラ部発行、1939年5月)とともに証言されています。このカメラは、のちに暢が高知新聞記者として取材に携帯し、記事に添えられた写真のネガ袋に「Leica」(ライカ)と走り書きされた痕跡が現存します。
戦時下の徴用と病
幸せな生活を歩んでいた総一郎とのぶでしたが、やがて戦争の足音が2人に迫ってきます。
1939年9月の海軍省告示には、神戸高商機関科卒業士官の予備任官リストに総一郎の名が掲載。二等機関長待遇での徴用が示されます。
1943(昭和18)年以降は船舶運営会配属の輸送船〈菊丸〉主機保守を担当。しかし長期航海中に結核を発症し1945年8月に内地送還されました。
そしてとうとう、同年10月7日付の高知県公報死亡通知欄に「小松總一郎(三三)肺結核」と掲示され、帰郷からわずか二か月で逝去したことが判明します。
神戸大学海事博物館の「卒業生戦没者名簿」パネルには、疾病戦病死の区分で総一郎の氏名が掲示され、戦没年月日は「昭和20年10月7日」と記載されています。
早すぎる死が遺したもの
残された妻ののぶは、新たな道を歩み始めます。
昭和21(1946)年4月15日、のぶは高知新聞社「婦人記者募集」に応募。履歴書の配偶者欄に「小松總一郎 故人」と記しているのが確認できます。
小松が授けた速記術や写真技法は、のぶの記者生活の武器となり、のちの『月刊高知』創刊号巻頭言に「亡夫の教え」として回想されました。
そしてのぶは、ここでやなせたかしと出会うのです。
小松総一郎は短い生涯ながら、高度な機関技術を支えに世界航路を奔走し、妻に写真と速記のスキルを託したその足跡は、書類の行間からも誠実さと先見性を伝えています。ドラマが描く若松次郎像の根底には、こうした一次史料が示す“実在した人物の思い”が脈打っていると感じます。


