大河「べらぼう」ついに喜多川歌麿(染谷将太)爆誕!史実では謎多き歌麿の名作に潜む”母への想い”を考察【後編】:3ページ目
史実では謎の多い喜多川歌麿の活躍はいかに
ふじが取り寄せた「人別」で「勇助」という戸籍と名前をもらった唐丸。
蔦重は雅号として「歌麿っていうのはどうだ」と提案します。SNSでは「歌麿爆誕」の文字が誕生!
歌麿と名付けた理由と蔦重の野望を聞いて、思わず「そんな馬鹿げたことを」と笑う唐丸は、子ども時代の唐丸にそっくりでした。(すっかり子ども時代の唐丸に戻ったような、笑顔・瞳の輝き・喋り方……染谷将太さんという役者さんのすごさを感じました。実際は染谷さんのほうが4歳も年上なのですが、圧倒的な“弟らしい年下感”の演技が素晴らしかったと思います。)
大首絵の美人画・春画・『絵本太閤記』などさまざまな作品を
浮世絵師の多くは、生まれ育ちが謎に包まれていることも多いのですが、喜多川歌麿もその一人。どんな土地でどんな親のもとどのように育ったのか不明です。
亡くなったのが1806年で、逆算して1753年頃の生まれではないかという推測があり、史実として伝わるものが少ないために、ドラマや映画などのフィクションの世界でいろいろと膨らませることができます。
美人画を中心に現代でも世界的に有名な数々の名作を手掛けた歌麿。同時代の作家とは異なるその特徴として、描く女郎たちに向ける眼差しが優しいことが挙げられています。
親に売られて地獄の吉原で体を売らざるおえない女郎たちに共感を覚え、愛おしさや慈しむ気持ちを持っていたのではと言われる歌麿。ひょっとして、辛い人生を送ってきたのかもしれないと想像すると、ドラマでの悲惨な少年期を過ごしてきた人物というストーリーも頷ける思いです。
史実では「大首絵」(上半身だけを描くバストアップの絵で役者絵に多くみられた)の美人画、春画、豊臣秀吉の生涯を描いた『絵本太閤記』で高い評価を受け、まさに江戸を代表する絵師となっていく喜多川歌麿。
安永4年(1775)23歳頃は、北川豊章のペンネームで安永9年頃までは、蔦重のライバル・西村屋(西村まさ彦)のもとで絵を描いていたところ、新進気鋭の蔦重と出会い意気投合したというふうに伝わっています。
ちなみに、歌麿は晩年「人を喰らう鬼女である山姥と、赤子の金太郎」の絵を数多く描いています。(そのほかにも、母親の乳房にすがりつく赤ん坊なども)ドラマの歌麿の生い立ちを思い浮かべると何か「母」に対する思いが残っていたのでしょうか。
ドラマでは、虐待する母親でも、唐丸が体を売って金を稼いだ時だけは酒を飲んで上機嫌になり胸元に抱き寄せ、「おっぱい吸うかい」と聞いていました。唐丸は「出るのは乳じゃなくて酒だろ」と返しながらも、抱きしめられてちょっと嬉しそうな表情を受かべていたのが印象的でした。
実際に喜多川歌丸が残した貴女と赤ん坊の絵では、鬼女であることを知ってか知らずか、おっぱいにすがる赤子が描かれています。そこから着想を得た、歌麿の幼少期の話だったのでしょうか。実際のところはわかりませんが「豊かな乳房にすがりつく赤ん坊」に歌麿はどのような想いを込めたのか……勝手に想像すると、切ないものを感じます。
ドラマでは、「俺は瀬川も源内先生も助けられなかったから、せめてお前を助けされてくれ。俺を助けると思って」と蔦重に頼まれ、母親の呪縛に縛られ死んだような日々から抜け出る決意をした歌麿。これから兄となった蔦重とどのような活躍をしていくのか、どのような脚本で描かれるのか楽しみですね。



