悲劇の指揮官…中国友好を望むもA級戦犯として処刑された日本陸軍・土肥原賢二がたどった運命:2ページ目
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悲劇の指揮官
しかし彼が奉天特務機関長となった1931年の9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破させます。柳条湖事件です。
関東軍はこれを中国軍の犯行と発表して軍事行動を開始し、満洲事変のきっかけをつくります。そして最終的に満州を占領するに至りました。
この一連の事変と土肥原は無関係だったのですが、奉天特務機関長というポジションゆえに、事件後の2日には満洲事変を主導した石原莞爾と板垣征四郎との会談が行われています。この席で、普段は温厚な土肥原は満蒙五族共和国案を強く推しました。
その後、土肥原は天津にいた清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を連れ出し、満洲国の皇帝として擁立します。こうした活躍から、土肥原は「満洲のローレンス」と呼ばれるようになりました。
その後は、地方軍閥を中国政府から離反させる工作に従事し、1935年6月には「土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定」を締結します。この協定により、河北省に冀東(きとう)防共自治政府が成立しました。
しかし終戦後、A級戦犯として土肥原は逮捕され、東京裁判で死刑判決を受けることになります。
そこで土肥原の極刑を強く求めたのは、皮肉なことに土肥原が友好を望んでいた中国でした。彼は一貫して日中親善を信念としながらも、日本の対中政策の尖兵となった悲劇の指揮官と言えるでしょう。
参考資料:別冊宝島編集部『日本の軍人伝説の指揮官に学ぶリーダーの条件』(2024)
画像:photoAC,Wikipedia
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