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「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】:3ページ目

家族愛にあふれた女帝の墓域

益田岩船が存在する丘陵には、岩肌が露出している場所があり、この山には石材が豊富であることがわかります。

その岩は、花崗岩の一種である飛鳥石でした。そう、斉明が飛鳥京の守護のために造った両槻宮の石垣に用いたあの石です。

すなわち、益田岩船は斉明大王の寿陵(じゅりょう)の石室として、この山で加工作業が行われたものの、工事途中で2つの穴のうち片方に亀裂が生じてしまい、ここに放棄されたものでした。これは、岩船の2つの穴のうち、片方には水が溜まっているが、もう片方には溜まっていないことからもわかります。

そもそも花崗岩の飛鳥石は、硬く耐久性に優れた高品質の石です。そのため、加工が難しく、作業を行った石工たちは苦労したことでしょう。

しかし、斉明が飛鳥石を好んでいたことを知っていた石工たちは、女帝の望みに応えるべく、懸命に加工作業に励んだと思われます。

斉明はおそらく現地を訪れ、石工たちの作業を視察していたと推測されます。そして、石工から益田岩船についてこれ以上の作業ができないとの説明を受け、さぞ失望したことでしょう。

益田岩船の2つの穴は、明らかに斉明ともう一人の人物を合葬する石槨であり、斉明の意図により設計されたことは間違いありません。

『日本書紀』によれば、斉明は658年の遺言で、寵愛していた皇孫の健王(天智大王の子)が8歳で亡くなった際、将来自分と合葬するよう命じました。したがって、その人物は健王であったと考えられます。

その遺言から3年後の661年、斉明は九州の地で崩御しました。亡骸は皇太子であった中大兄皇子(後の天智大王)に付き添われて飛鳥京に戻り、殯(もがり)の儀式が行われました。

667年2月27日、即位して天智大王となっていた中大兄は、斉明と665年に薨去したその娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)を越智岡上陵に合葬。同日、斉明天皇の皇孫である大田皇女(大津皇子の母)も陵の前の墓に改葬されました。これが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳です。おそらく、健王の小さな亡骸も斉明の懐に抱かれて葬られたのでしょう。

天智は母・斉明のために、墳丘全体を凝灰岩切石で装飾した白亜に輝く八角形墳を築きました。牽牛子塚古墳は、「石の女帝」と称された稀代の女傑・斉明大王にふさわしい御陵といえるでしょう。

牽牛子塚古墳に眠る斉明大王と間人皇女。そして越塚御門古墳に眠る大田皇女は、ともに激動の飛鳥時代を生き、それぞれにその時代に大きな貢献をした女性です。

奈良に行く機会があれば、ぜひ明日香村まで足を延ばし、越智岡を訪れその奥津城で彼女たちの息吹を感じていただければと思います。

長い文章になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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