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「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】

「石と水の都」を築いた飛鳥時代の女帝・斉明大王!益田岩船など飛鳥京造営の遺構に秘められた謎を探る【後編】:2ページ目

石にこだわった斉明が望んだ寿陵

さて、ここからは益田岩船と牽牛子塚古墳に話を戻しましょう。

古代より時の権力者たちは、生前に自分の墓を準備する慣習がありました。これを寿陵(じゅりょう)と呼び、その起源は秦の始皇帝に遡るとされています。

生前に墓を築くことは、長寿や子孫繁栄をもたらす縁起の良い行為とされ、古代中国の歴代皇帝たちはこぞって寿陵を造営しました。

この慣習は、やがて朝鮮半島を経て倭国にも伝わります。日本では、4世紀頃から巨大な前方後円墳が造営され、これも寿陵の一種と考えられています。

被葬者は自身の長寿と子孫繁栄を願い、陵を造る人々は被葬者の庇護による平安を求めたのです。

この考えは、仏教が伝来した飛鳥時代にも続きました。高齢で重祚した斉明大王は、誰よりも長寿を願ったことでしょう。そのため、彼女は寿陵を造る際に、自身の好みを強く反映したと考えられます。それが益田岩船であり、牽牛子塚古墳でした。

これまで述べてきたように、斉明が造営した飛鳥京は「石」と「水」の都でした。特に斉明がこだわったのは「石」で、宮殿の石敷きや石垣、苑池の護岸、石造物などに多く用いられています。そんな斉明だからこそ、自らの陵墓にも巨岩を用いることを望んだのではないでしょうか。

3ページ目 家族愛にあふれた女帝の墓域

 

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