【大河べらぼう】ロシアに強硬姿勢、反幕勢力と交流!蝦夷地に君臨した松前藩主・松前道廣(えなりかずき)の豪快すぎる生涯:2ページ目
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隠居しても血気盛ん
そんな豪放な松前道廣の対外政策は、実に強硬なものでした。ロシアから通商要請を受ければ、幕命を名目(タテ)にこれを拒否。現代日本の政治家では考えられない強硬姿勢です。
また寛政元年(1789年)に国後島や目梨郡で勃発したアイヌの叛乱(クナシリ・メナシの戦い)に際しては、交渉の余地を残さずこれを鎮圧。家臣の新井田正寿・松井広次らを派兵しています。
寛政4年(1792年)には家督を長男の松前章広(あきひろ)に譲り、隠居します。
隠居後は通称を大炊頭(おおいのかみ)・美作守に改めましたが、それで大人しくなるタマではありません。
寛政8年(1796年)にエゲレス船プロビデンス号がアプタ沖(北海道虻田郡洞爺湖町)に出没した際は、息子や家臣の反対を振り切って自ら出陣しています。よほど戦いたかったのでしょうね。
永蟄居を命じられる
そんな松前道廣は文化4年(1807年)3月26日、幕府から永蟄居(謹慎)を命じられてしまいました。
思い当たる節しかありませんが、お咎めの理由は藩主在任中の強硬姿勢と素行の悪さ。豪快すぎるお殿様にも困ったものです。
この処分は元家臣の讒言があったとも言われ、少なからず恨みや反感を買っていたのかも知れませんね。
文政5年(1821年)3月18日に永蟄居を解かれた松前道廣が行いを改めたのかは分かりませんが、天保3年(1832年)6月20日に世を去りました。享年79歳。
終わりに
今回は松前藩第8代藩主・松前道廣の生涯を駆け足でたどってきました。
豪放磊落な人柄が強烈なインパクトを残す人物でしたが、えなりかずきとは少しギャップが大きいようです。
果たしてこのギャップを、えなりかずきがどう演じてくれるのか、活躍が楽しみですね!
※参考文献:
- 新藤透『北海道戦国史と松前氏』洋泉社、2016年2月
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