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神様が裁判官!?起請文、盟神探湯(くがたち)……中世日本の裁判における“見えざる力”への誓い

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ヨーロッパでも中世には、「火を持って歩き、火傷が治れば無実」「水に沈めば潔白」といった神判が広く行われていました。さらに、騎士同士が争いの正しさを剣で決める「決闘裁判」も存在し、「力によって神が味方する側が正しい」と信じられていたのです。

このように文化や宗教が異なっていても、日本とヨーロッパの人びとは、「人間には判断しきれないことを、神に裁いてもらう」という発想を共有していました。神や仏は、信仰の対象であると同時に、社会の秩序を支える裁きの存在だったのです。

やがて、こうした「神の裁き」は、しだいに姿を消していきます。ヨーロッパではローマ法の復興や大学での法学研究が進むことで、証拠や論理にもとづく裁判制度が発展していきました。

日本でも鎌倉幕府による『御成敗式目』などの法整備が進められ、起請文のような宗教的な手法は、徐々に制度の中から姿を消していきます。

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神の裁きから人の法へ――。
人びとはなぜ熱湯に手を入れ、なぜ神に誓いの文を書いたのか。
そこには、目に見えない「真実」や「正義」を見つけ出したいという、深い願いがありました。

中世の裁判をたどることは、ただ昔の風習を知るだけではありません。「正しさは、誰が決めるのか?」という問いは、現代にも続いています。遠い時代の人びとの思考や信仰にふれることで、私たちは今なお答えの出ない問いに、新たな視点で向き合うヒントを見つけられるのかもしれません。

参考文献

  • 赤阪俊一『神に問う-中世における秩序・正義・神判』(1999 嵯峨野書院)
  • 清水克行『日本神判史』(2010 中央公論新社)
  • 佐藤雄基『御成敗式目―鎌倉武士の法と生活』(2023 中公新書)
  • 長又高夫『御成敗式目編纂の基礎的研究』(2017 汲古書院)
  • 山内進『講談社 現代新書 1516 決闘裁判-ヨーロッパ法精神の原風景』 (2000 講談社)
 

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