
足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【前編】:2ページ目
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天皇の無力化の具体策
義満による天皇の無力化は、1385年(至徳2年/元中2年)にはすでに始まっています。
京都は天皇が支配する町で、武家が介入できない聖域でした。事実、武家政権成立後も、朝廷の警察機関である検非違使庁は南北朝末期まで存続しています。
ところがこの年、将軍である義満は幕府の侍所から山城守護を分離し、京都の警察機関として自立させました。これにより、検非違使庁の役目は失われてしまったのです。
さらに、改元・祭祀・官位に関する権限も義満が奪いました。これが致命傷となり、天皇の権威は大きく低下することになります。
ここまで足利義満による天皇の無力化の初期の動きについて説明しました。皇位簒奪計画の具体的な展開とその結末については【後編】で説明します。
【後編】の記事はこちらから↓
足利義満の容赦ない「皇位簒奪計画」…義満と天皇の権威の壮絶なるせめぎ合いとその結末【後編】
義満のさらなる介入と明との関係【前編】では足利義満による「天皇無力化計画」の初期の動きについて説明しました。[insert_post id=242976]【後編】では皇位簒奪の具体…
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
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