
幕末志士・高杉晋作の生き様。彼の行動力と信念は、日本の歴史を大きく動かした:2ページ目
晋作は長州藩の学校で勉強しましたが、途中で松下村塾に入りました。ここで久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに「松下村塾四天王」と呼ばれるほどになります。しかし、性格が強すぎて周りの塾生には嫌われていました。それでも、吉田松陰は「晋作の強い性格こそが大事業を成す力になる」と評価しました。
吉田松陰が処刑されると、晋作は幕府に対する怒りを強めました。しかし、父親は息子の行動を危険視し、家の中に閉じ込めてしまいました。そこで彼は家を飛び出し江戸へ行こうとしましたが、頼った武士に「親不孝だ」と説教され、結局、強制的に家に戻されました。
その後、晋作は長崎から中国・上海へ渡りました。そこで欧米列強による植民地化の現実を目の当たりにし、「日本もこのままでは外国に支配される」と強い危機感を持ちました。この経験が、彼の考え方を大きく変えるきっかけになりました。
帰国後、晋作は身分に関係なく兵士を募集する「奇兵隊」を作りました。
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高杉晋作と奇兵隊高杉晋作は今でも日本史上の人物で高い人気を誇ります。そんなこともあり、彼の設立した奇兵隊は、現在でも高く評価されています。※この記事も合わせて読みたい![insert_…
これは、日本の軍隊の歴史において大きな転換点でした。しかし、武士と農民の対立が激しくなり、内部で争いが起きたため、彼はわずか3か月でリーダーを解任されてしまいました。
その後は、藩命により京都へ向かいますが、京都で活動していたとき、藩の勘違いで「職務を放棄した」と思われ、牢屋に入れられてしまいました。最終的に父の助けで釈放されましたが、そのとき彼は「どうしてこんなに頑張っているのに、何もうまくいかないんだ」と涙を流したといいます。