鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【後編】:3ページ目
そのままにさせておいた
実際、松平定信の自伝には、平蔵についてその功績を認める一方でこう書き記されています。
「長谷川何がしという者は、功利をむさぼるために山師(相場師)などというよくないこともあるようで、人々は悪くいう。ただし、このような人でなければ人足寄場はできないだろうと試しにやらせてみた」
定信は、このように清濁併せ飲むスタイルで世間に通じていた平蔵に対して長谷川何がしと言葉を濁すほど嫌悪感を露わにしています。名前すら呼びたくなかったのです。
こうしたことが平蔵の出世に影響したのでしょう。そして、同時に火付盗賊改の実績が大きかったことから、そのままにさせておいたのだと思われます。これが、平蔵の在任期間の異例の長さにつながったのです。
寛政7年(1795年)、平蔵は火盗改の激務が祟ってか、在任中に体調を崩して職を辞した3日後に亡くなっています。その死は江戸の多くの人々から惜しまれました。
こうして見ていくと、長谷川平蔵は、教科書にも出てくる田沼意次・松平定信の施政方針と運命を共にするような人生だったことが分かりますね。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
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