鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【前編】:2ページ目
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解任そして再任
『鬼平犯科帳』の「盗法秘伝」の冒頭では、平蔵が老中・松平定信に呼び出され、激務である火盗改の任に就いた平蔵を休養させるために、解任されるシーンがあります。
そして平蔵は父・宣雄の墓参りのために京都への旅路に出ました。
ところが、平蔵がいなくなった江戸の街では凶賊・火盗六兵衛が暴れ回って治安が悪化。「駿州・宇津谷峠」で平蔵は火盗改に再任されることとなりました。
これは史実に基づいており、平蔵は火盗改の加役(仮役)になった翌年の天明8年(1788年)4月に解任され、その半年後に再任されています。
ここから50歳で死去するまでの8年間、平蔵は火盗改の激務を担うことになったのです。
ここまで見ていくと、平蔵は田沼意次や松平定信からその才を見抜かれ、火付盗賊改めの長官に引き立てられたかのようですね。
しかしひとつ疑問が残ります。なぜそれほどの才覚があった長谷川平蔵は「奉行」になれなかったのか、という点です。
火付盗賊改方の頭(長官)という役職は、本来は臨時のものでした。しかし長谷川平蔵は長期に渡ってこのポストを任され、そこから動くことは生涯なかったのです。これも考えてみると不自然な感じがします。
これが実は、松平定信と長谷川平蔵の微妙な関係が原因なのです。
【後編】の記事はこちらから↓
鬼平・長谷川平蔵が奉行になれなかった理由。時の老中との微妙な関係が平蔵の運命を分けた【後編】
出世できなかった「今大岡」【前編】では、長谷川平蔵が時の老中・田沼意次に引き立てられて出世し、その後は松平定信から解任と再任をされていたことを解説しました。[insert_post id=…
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia
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