
江戸時代の闇!江戸の大盗賊たちの栄枯盛衰と殺人ライセンスを持つ「火付盗賊改方」との闘い
大都市化と犯罪
徳川家康が江戸で開府した17世紀初め、江戸の人口は十数万人だったと伝えられています。それが数十年で増加し、百万人規模の大都市に成長しました。パリやロンドンをしのぐ、当時世界最大の都市となったのです。
同時に増えたのが犯罪です。地方からの流入者が困窮し、犯罪が急増しました。江戸の町は窃盗、スリ、ひったくり、強盗、放火など、あらゆる犯罪が横行する都市でもありました。
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地方では、徒党を組んで押し込み強盗を働く盗賊が横行しました。警察力が脆弱なため、元盗賊を雇って盗賊を撃退する村まであったといいます。
こうした有象無象のワルが跋扈する中で、頭角を現したのが浜島庄兵衛でした。
日本左衛門VS火付盗賊改方
徳川吉宗治世下の1720年頃、尾張藩の飛脚の子として生まれた浜島庄兵衛は、若くして大盗賊の頭領となり、日本左衛門と呼ばれるようになります。
日本左衛門一味のスタイルは、集団での押し込み強盗でした。彼らは狙った邸宅に数十人規模で押し入り、提灯を灯して屋内を物色するという手口で大暴れしました。
近隣の家や逃走経路には見張りを立てるという念の入れようだったと伝えられています。
1746年、日本左衛門は掛川藩の商家を襲撃して1000両を奪いました。この事件により火付盗賊改方が出動し、日本左衛門の捕縛が命じられます。
火付盗賊改方といえば池波正太郎の『鬼平犯科帳』が有名ですが、この役職の誕生は徳川幕府創世記の慶長・元和の時代まで遡ります。
当時は、戦国時代の余波が残っており、滅亡した大名家の残党が新たな職に就けず困窮していました。
こうした者たちが盗賊として跋扈する事態になり、幕府は慶長16年に三人の足軽大将に部隊を与え、常陸や下野に派遣したのです。
この武断的な対応により多くの賊が討ち取られ、捕らえられた賊は全て斬首されました。
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