大河『べらぼう』花魁・花の井は実在の人物!吉原屈指の名妓「五代目 瀬川」の数奇な人生【後編】:2ページ目
五代目瀬川となった花の井
そして、そんな四代目の跡を継ぎ、五代目瀬川となった花の井は、安永4年(1775)に、鳥山検校(とりやまけんぎょう)という人物に落籍されます。
「検校」というのは名前ではなく、室町時代以降の「盲人の中での最高の位」を表すことばです。
鳥山検校は「当道座(とうどうざ)」と呼ばれる男性盲人の自治組織のトップでした。
当道座は、琵琶法師たち自らの芸や団体を「当道」と称したことから始まり、盲人による琵琶・鍼灸・導引・箏曲・三弦などの団体が属していたそうです。
江戸幕府では、当道座のそれらの事業の独占を認めて税金も免除。鳥山検校は莫大な収益をあげてかなりの財力を持っていました。
さらに検校は、高利貸し業を営んでいて、かなり厳しい取り立ても行っていたそうです。
その取り立て方法は、江戸在住の浪人で随筆家の武陽隠士(ぶよういんし)による『世事見聞録』によると「強欲非道」とまで書かれていました。
かなりの財産をなした鳥山検校は、安永4年(1775)に五代目瀬川を落籍しました。財力や権力のある人間が人気の花魁を身請けするのはよくあることですが、このことは「鳥山瀬川事件」とまで呼ばれるほど江戸中で話題になったそうです。
トップクラスの花魁・瀬川は、なぜ悪名高い鳥山検校の身請け話を受けたのか……その理由は定かではありません。
この身請け話が江戸っ子の間で話題になったのは、身請けにあたって多額のお金が支払われたからです。