脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将・小田部勝成の武勇伝:3ページ目
脳を負傷!?でも死なない
そんな乗込大学でしたが、慶長7年(1602年)に重傷を負ってしまいました。3月16日に仙台城下で勃発した御小人騒動(おこびとそうどう)です。
御小人とは農民から徴発された小者を指していました。公共事業や戦時の増員を目的としていたものの、やがて臨時動員が常態化すると、下級武士のような存在になっていきます。
そんな御小人たちが、城下の普請中に暴動を起こし、普請奉行の金森勘平(かなもり かんべい)を射殺してしまいました。最終的には鎮圧されたものの、家臣たちにも被害が及びます。
小田部大学もまた賊徒の銃撃を受けたらしく、脳(!?)と肘(ひじ)を負傷してしまいました。
……小田辺大学勝成八脳ト肘ヲ傷ケラル……
※『貞山公治家記録』巻21・慶長7年(1602年)3月16日条
脳を傷つけられて生きているとも思えませんが、恐らくは頭部を指しているのでしょう。
その後も生き延びた小田部大学は慶長19~20年(1614~1615年)の豊臣征伐(大坂の陣)にも従軍し、武功があったと言います。
ちなみにこの時、小田部大学には小田部茂成(しげなり)という子がいました。通称は小田部主殿(とのも)。
慶長4年(1599年)生まれなので大坂冬の陣時点でまだ16歳。元服して間もない血気盛んなことで、従軍を願い出るも却下されてしまいます。
諦めきれない茂成は一人で大坂まで駆けつけ、しぶとく従軍を願い出たのでした。
小田部大学は政宗に対して「主殿が軍規に背いたため、腹を切らせてください」と願い出ます。なかなか厳しい父ですね。
しかしこれを聞いた政宗はむしろ茂成の心意気を賞賛し、陣袍(じんぽう。陣羽織)を与えたのでした。
夏の陣にはこれを着て正式に参陣。武功によって500石を与えられ、江戸脇番頭(えどわきばんがしら)を拝命します。
息子の成長ぶりを見届けた小田部大学は、大坂の陣を機に隠居。元和2年(1616年)に隠居料を与えられ、そのまま歴史の表舞台から姿を消したのでした。
終わりに
今回は伊達政宗に仕えた戦国武将・乗込大学こと小田部勝成について、その生涯をたどってきました。
結構マイナ―だと思いますが、実に勇猛であったようです。
まだまだ知られていない戦国武将がいるので、また発見していきましょう。
※参考文献:
- 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 1』新人物往来社、1987年11月