脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将・小田部勝成の武勇伝:2ページ目
「北の関ヶ原」でも活躍
さて。二本松氏の滅亡後、小田部大学はすぐに再仕官せず、しばらく浪人しています。
乗込大学ほどの勇士であればどこでも歓迎されたでしょうに、再仕官した記録がありません。
主君を滅ぼした伊達に仕えたくない気持ちは分からなくもありませんが、他の大名にも仕えなかった理由は何でしょうか。
単に二本松家へ義理立てしていたのか、あるいは伊達あたりから他家に対して奉公構(ほうこうがまい)、すなわち「コイツを雇うな」と嫌がらせをされていた可能性も考えられます。
ともあれ永らく浪人した後、慶長3年(1598年)に片倉景綱(かたくら かげつな)の伝手で伊達家へ再仕官。300石で召し抱えられたのでした。
当時は太閤・豊臣秀吉が世を去ったことで世が再び不穏となってきており、伊達家でも勇士を求めていたのが理由でしょう。
慶長5年(1600年)に「北の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦が勃発すると、小田部大学は伊達家の武将・留守政景(るす まさかげ)に従軍します。
出羽国の最上義光(もがみ よしあき)を救援するべく、戦友である「不属の弥平」こと石川実光と共に上杉景勝の軍勢と戦いました。
この時、小田部大学は赤い琵琶の旗、石川実光は黒い琵琶の旗を掲げていたそうです。
赤と黒の琵琶を見て、上杉方の総大将である直江兼続(なおえ かねつぐ)は嘲り笑って言いました。
「琵琶は弾(ひ)くもの。弾く(退く)とはすなわち退(しりぞ)く意味、敵を見たら逃げ帰るのか!」
これを聞いて小田部大学は、すかさず言い返します。
「琵琶は筐(かたみ。細竹で編んだ籠)に入れればすなわち弾けぬ。もし敵を片見すれば(片目でも視界に入れば)、討つことなく退くこと能(あた)わぬ!」
見事な反論に直江は降参。勇士に対する非礼を潔く詫びた上で、正々堂々と干戈を交えたのでした。
現代の武士道にも通じる、清々しい態度と知的なやりとりに感心してしまいますね。