西洋文化に流されず自らの信念を貫いた男勝り!大隈重信の妻・大隈綾子の生涯

湯本泰隆

大隈綾子(おおくまあやこ)[1850-1923]は、近代日本の女性教育者の一人でもあり、著名な政治家・大隈重信の妻として、夫を支え続けた女性です。一方で彼女は、ただの「良い妻」ではなく、強い意志と大胆な行動で多くの人に影響を与えました。

特に鹿鳴館での出来事として語られるエピソードや、宮武外骨が、鳩山春子や濱尾作子などと並べて、「男勝りの女」と評したことは、彼女の生き方をよく表しています。

※大隈重信に関する記事

右足切断の大怪我を負ってもなお、自分を殺そうとした相手に寛容だった大隈重信

大隈重信(おおくま しげのぶ)といえば、内閣総理大臣を2度も務め、教科書にも載っている有名な政治家ですが、そんな彼の人柄を示すエピソードが残されています。それは、大隈が52歳のときのこと。当時…

旗本の娘

綾子は、1850年、800石取りの旗本・三枝七四郎の次女として江戸に生まれました。幼い頃、いころ、兄の守富と一緒に親戚である駿河台の小栗家に住んでいました。明治維新の後、実家が貧しくなり、のちに井上馨の妻となる岩松武子と一緒に茶屋で働いていたと言われています。

18歳の頃、神田和泉橋の糸屋「辻屋」の次男で、大工の養子になっていた柏木貨一郎というお金持ちの美男子と結婚しましたが、結婚しても仲が良くならず、すぐに離婚することになりました。

20歳で大隈重信と結婚し(重信も再婚でした)、その後は常に重信に寄り添い、生涯仲の良い夫婦として知られています。

流行に流されず、自らのスタイルを保持

19世紀後半の日本の価値観は、西洋文化を取り入れることに躍起になり、古くから日本に伝わる伝統的な価値観をどんどん排除していこうとした、そのような時代でした。

その象徴的な場所が鹿鳴館です。鹿鳴館では、多くの人が洋装でダンスをし、西洋風の社交を楽しんでいました。ところが、綾子は和服で夜会に参加したそうです。

彼女はダンスや洋装が好きではなく、日本の伝統美を大切にするために着物を着続けたのです。この姿勢が周りに影響を与え、次第に和装で参加する人も増えていったそうです。

綾子は、自分の信念を曲げず、流行に流されない強さを持った女性でした。

2ページ目 女性の社会的地位向上への努力

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了