藤原道長、エグ過ぎる!三条天皇に譲位を迫る陰湿な嫌がらせの手口がトラウマもの【光る君へ】
時は寛弘8年(1011年)、一条天皇から譲位された居貞親王(いやさだ。三条天皇)。
春宮(とうぐう。皇太子)には敦康親王(あつやす。藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子)がつくはずでしたが、藤原道長の圧力により退けられてしまいます。
代わりに春宮となったのは敦成親王(あつひら。藤原彰子が生んだ一条天皇の第二皇子)。自分の血を引く天皇陛下を一刻も早く即位させたい道長は、あの手この手で圧力をかけ、三条天皇に譲位を迫りました。
挙げ句の果てには陰湿な嫌がらせまで行う始末。一体どんな嫌がらせに及んだのか、見ていきたいと思います。
内裏に落ちていた生首
時は長和4年(1015年)7月、内裏の紫宸殿(ししんでん)に、人の首が落ちていました。
発見したのは天皇陛下に仕える蔵人(くろうど)の一人。見ると首は半壊し、その傷口は白くなっています。
つまり死後しばらく経ってからここに転がされたのでしょう。
これが誰の首かは分かりません。おおかた下民がくたばり、野犬がくわえてきたものと思われます。
蔵人は首の発見を藤原実資に報告しました。
「先例によれば、死後相当の時間が経過した死体は穢(ケガレ)とはしないことになっているから、今回は触穢(しょくえ)とはならないだろう」
実資はそう思って道長に報告。道長は首を調査させ、翌日に結果を出します。
「首を調べたところ、中の方がまだ赤かった。つまりこれは死後間もない新鮮な首と言える。よって今回は触穢と判断すべきである」
中の方が赤かった、ということは、首の傷口を更に深くえぐらせたのでしょう。まったく大した執念です。
何としてでも触穢にしたかった道長の意図は、もちろん三条天皇への嫌がらせでした。
というのも三条天皇は眼病を患っており、平癒祈願のために伊勢の神宮へ奉幣使(ほうへいし)の派遣を予定していたのです。
触穢があれば神事は延期せざるを得ないため、奉幣使の派遣も当然延期されました。
またこうした怪異は君主の治世に対する天の戒めとも解釈され、三条天皇への遠回しなメッセージ(早く譲位せよとの批判)でもあります。
要するに、首を転がしておいたのは道長の差し金でした。