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豊臣家と徳川家で板挟み状態!豊臣秀吉に見出された名将・片桐且元の波乱に満ちた人生

豊臣家と徳川家で板挟み状態!豊臣秀吉に見出された名将・片桐且元の波乱に満ちた人生:2ページ目

/ 人物
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2024/09/09

豊臣家と徳川家の戦争回避に奔走

関ヶ原の戦い以降、片桐且元は豊臣家と徳川家の調停役を担います。板挟み状態の且元が巻き込まれてしまったのが、「方広寺鐘銘事件」です。

滅亡はやっぱり豊臣氏のミスだった?あの方広寺鐘銘事件の最新の解釈は

最後まで戦っていた家康徳川家康の人生を辿っていくと、1614年に大坂冬の陣、1615年に夏の陣、そして1616年に死去と、最後の最後まで豊臣氏と争っていたことが分かります。まるで、最終的に…

且元が奉行を務めた際に一度完成していた方広寺の大仏と大仏殿ですが、地震で倒壊。再度建設が始まり、大仏殿におかれる梵鐘も完成しました。

しかし、この梵鐘に書かれていた文字が豊臣家を滅亡と導いてしまうのです。

徳川家側は梵鐘の「国家安康」と「君臣豊楽」という文言が、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を喜ぶものだと言いがかりをつけてきます。且元は釈明のために徳川側に向かいますが、家康とは面会できませんでした。

あげく、且元は淀殿・秀頼からも徳川家との密通を疑われてしまいます。大坂城を去った且元は、家康に見方することになります。大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、且元も亡くなります。病気だったとも、自害だったとも言われています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

 

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