これぞ江戸時代のシンデレラストーリー!八百屋の娘・お玉が歩んだ人生が華麗で素敵すぎ!:2ページ目
将軍の側室になったが、待っていたのは…
春日局の協力もあり、将軍付きの御中臈(おちゅうろう)となります。御中臈は主に将軍のお世話をする役職であり、側室になれる確率も高いのも特徴でした。
家光に気に入れられたお玉は側室となり、正保3年(1646)に綱吉を出産します。しかし、綱吉は3男だったために次期将軍になれることは絶望的でした。
それでもお玉は綱吉が聡明だったので、将来性を信じ学問を教えました。
そんな中、慶安4年(1651)に家光が没し、徳川家綱が4代将軍に就任するとお玉は剃髪し、「桂昌院」と名前を変え、大奥を後にします。
そして、綱吉が館林藩の藩主になると館林藩江戸藩邸へ住みました。
綱吉が将軍に、桂昌院は従一位に
延宝8年(1680)、藩主の母として何不自由なく暮らしていた桂昌院に思ってもいなかった転機が訪れます。それは家綱の病死でした。
家綱は後継ぎを残さないまま亡くなってしまったので、家綱の異母弟の綱吉に白羽の矢が立ちました。こうして、綱吉は5代将軍に就任し、桂昌院は「将軍の母」として絶対的な権力を得ることになります。
そして、桂昌院は元禄15年(1702)には女性の最高官位である従一位を与えられ、宝永2年(1705)に79歳で生涯を終えました。