清少納言と離婚した体育会系な先夫・橘則光の詠んだ和歌がなかなかメルヘン!【光る君へ】:2ページ目
橘則光プロフィール
橘則光は康保2年(965年)に橘敏政(としまさ)と右近尼(うこんに/あま)の間に誕生しました。
右近尼は花山天皇の乳母を務めており、花山天皇の乳兄弟に当たります。
花山天皇が即位すると出世が期待されたものの、寛和2年(986年)に花山天皇がいきなり出家・譲位してしまうと、しばし不遇をかこつことになりました。
やがて長徳元年(995年)に六位蔵人(ろくいのくろうど)となり、一条天皇の側近として仕えます。
また修理亮(しゅりのすけ)・左衛門尉(さゑもんのじょう)、検非違使尉(けびいしのじょう)などを兼任しました。
修理亮:御所の修理などを担当する部署の次官。
左衛門尉:御所の門を護衛する部署の三等官。
検非違使尉:京都洛中の治安を維持する部署の三等官。
長徳4年(998年)に従五位下となり、長保3年(1001年)に従五位上へ昇ります。
のち長保4年(1002年)に遠江介(とおとうみのすけ。遠江国の国司次官)、寛弘3年(1006年)に土佐守、寛仁年間(1017~1021年)には陸奥守と国司を歴任しました。
その一方で藤原斉信(ただのぶ)の家司を務めたと言います。
則光の没年について詳しいことは分かりませんが、万寿5年(1028年)に前陸奥守(さきの~。元職)として言及されていることから、そこまでは生きていたのでしょう。