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俳句の神様・松尾芭蕉は若い弟子を愛した男色家だった! 〜 愛する弟子とのボーイズラブ旅【後編】

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愛する人と再び死に別れ悲しみを引きずる芭蕉

残念ながら、元禄3年(1690)、杜国は34歳の若さで死去します。芭蕉のほうが13歳年上でした。

弟子としても恋人としても、唯一無二の存在がいなくなった芭蕉の悲しみはいかばかりだったでしょう。

京都嵯峨にある向井去来の別荘・落柿舎(らくししゃ)に滞在中に綴った日記『嵯峨日記』には、

夢に杜國が事をいひ出して、悌泣して覚ム。

という記述があります。杜国が死後1年後のことですが、愛しい杜国が夢の中に出て、悲しみで涙を流して目が覚めたというような意味合いです。

さらに、

我夢は聖人君子の夢にあらず。終日妄想散乱の気、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること所謂念夢也。

我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労をともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。

ある時ははたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚(さめ)て又袂(たもと)をしぼる。

と続きます。つまり、自分の夢は聖人君子の夢のようではなく、昼間は1日中妄想に囚われて心乱れている、夜の陰夢もそうだ。愛しい杜国は私を慕って伊賀の故郷まで来て、夜は床を同じくして寝起きし……

というような意味合いです。そして杜国恋しの想いのあまり、「目が覚めてまた涙に濡れた袂をしぼった」とあります。

この熱い心情は、師匠と弟子以上の情愛の深さがあったのだろうと感じられるのです。

俳句を詠むことに生涯を捧げた、ストイックで孤高の俳聖・松尾芭蕉。と聞くと、近寄りがたい人のような感じですが、内面は、美しき弟子を深く愛した情の深い人だったのかもしれません。

元禄5年ごろ、京から戻った芭蕉は新築の芭蕉庵へ移り住みます。

そして元禄7年(1694年)の秋、大阪を目指して旅立ちますが体調を崩し、南御堂門前にあった花屋仁左衛門宅に病床を移しますが、10月12日夕刻に51歳の生涯を閉じました。

その死の4日前に口述筆記させたというのが

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

これが最後の俳句となったのです。いろいろな解釈がありますが「旅の途中に病に臥しているが、夢に見るのは今なお枯野を駆け巡る自分自身だ」と捉える説が多いようです。自分自身だけではなくその隣には、愛弟子・杜国が寄り添っていたのではないでしょうか。

 

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